傍流から出てメディチ家の当主となったコシモ1世西暦1532年、イタリアの古都フィレンツェの統治者アレッサンドロ・デ・メディチ(教皇クレメンス7世の庶子とされる)が皇帝カール5世によって初代フィレンツェ大公に叙された。彼は西暦1536年には皇帝カール5世の娘と結婚している。ところが、翌年にはその初代フィレンツェ大公アレッサンドロが暗殺されてしまったんだ。その暗殺に先立つこと17年前、西暦1519年にウルビーノ公ロレンツォ(小ロレンツォ)が亡くなり、メディチ家本宗家、すなわち国父コジモ・デ・メディチや大ロレンツォ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)の子孫である兄脈嫡流男系は断絶していた。
そんなわけで、メディチ家の当主の座を継承したのは、国父コジモの弟ロレンツォ(ジョヴァンニ・ディ・ビッチの次男)を祖とする傍流の出身で名高い傭兵隊長の黒備えのジョヴァンニに息子でもあるコシモ1世だった。(上の画像はフィレンツェのバルジェッロ博物館で見たコシモ1世の胸像。イタリアのマニエリズムを代表する彫刻家チェッリーニの作品。)
第2代フィレンツェ大公コシモ1世メディチ家の当主となったコシモ1世ではあったけれども、フィレンツェ大公ではなく、統領として迎えられた。有力者たちは彼が専制的な権力者となることを嫌ったらしい。ところが、皇帝カール5世は彼に第2代フィレンツェ大公の地位を認めている。皇帝はフランス王フランソワ1世と共に戦う同盟者としてのコシモ1世に期待していた。
そんな皇帝の支援もあり、反メディチ派(例えばストロッツィ家)の人々と戦って打ち勝ったフィレンツェ大公コシモ1世は、やがて専制的な権力を確立している。そんな彼は西暦1540年にメディチ宮殿からヴェッキオ宮殿(上の画像)に移っている。シニョーリア広場を見下ろすヴェッキオ宮殿は、歴史的にフィレンツェの政治の中心だった。
初代トスカナ大公となったコシモ1世やがてフィレンツェに専制的な支配を打ち立てたコシモ1世は、西暦1555年にシエナ(中世からのフィレンツェのライバル)を征服している。15ヶ月にも及ぶ攻囲の末の征服だった。下の画像はそんなシエナのドゥオモ(大聖堂)の様子なんだ。
西暦1559年にはカトー・カンブレジ条約によってコシモ1世によるシエナ領有が正式に認められた。そして西暦1569年、ローマ教皇ピウス5世によってコシモ1世は初代トスカナ大公とされたわけだ。
フィレンツェのシニョーリア広場に立つコシモ1世騎馬像トスカナ大公となったコシモ1世は、トスカナ大公国の海軍を創設している。その海軍は、西暦1571年にはレパントの海戦にも参加している。そんなコシモ1世がフィレンツェで亡くなったのは、西暦1574年のこと。享年55歳。
そして西暦1598年、フィレンツェの中心シニョーリア広場にトスカナ大公コシモ1世の騎馬像(上の画像)が立てられた。共和制のシンボルとして立てられたミケランジェロのダヴィデ像(今はレプリカ・・・オリジナルはアカデミア美術館に移された)と同じ広場に専制君主となったコシモ1世の騎馬像があるのも何だか皮肉な話だけどね。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |