ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1571年、レパントの海戦においてドン・フアン・デ・アウストリア指揮下のキリスト教国連合艦隊がオスマン・トルコ艦隊を撃破した。


オスマン・トルコ艦隊に対するキリスト教国連合艦隊の結成

西暦1570年10月、スペインヴェネツィア、そしてローマの教皇庁の間で同盟が締結された。オスマン・トルコ艦隊に対抗するキリスト教国連合艦隊を結成しようという同盟だった。

その契機になったのが、その年に起こったオスマン・トルコ軍によるキプロス島への上陸と占領だった。それまでキプロス島を支配していたイタリアの海上帝国ヴェネツィアのみならず、イスラム教勢力の侵攻に危機感を抱くローマ教皇庁、カトリック勢力の大国スペインが、オスマン・トルコの地中海における勢力拡大を抑えようとしたわけだ。

キプロス島にある聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)ゆかりのコロッシ城

上の画像は、そんなキプロス島に残るコロッシ城の風景。今に残るコロッシ城は、15世紀に聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)が築いたものなんだ。その聖ヨハネ騎士団はロードス島を経てマルタ島に移ったんだけど、西暦1565年にオスマン・トルコはマルタ島に侵攻して攻略に失敗している。(今の聖ヨハネ騎士団の本部はローマにあるんだけどね。)

キリスト教国連合艦隊の出撃

そして、翌年、地中海各地を出航したキリスト教国の艦隊は、シシリア島のメッシーナに集結した。ヴェネツィア、バルセロナ、ナポリ、シシリア、トスカナ公国、サヴォワ、ローマ、ジェノヴァ、そしてマルタからも。(余談ながら、トスカナ公国の艦隊はメディチ家のコシモ1世によって創設されたばかりだった。)

そして西暦1571年9月、メッシーナからキリスト教国連合艦隊が出撃した。その主力となっていたのは、200隻を越えるガレー船だった。(下の画像はレパントの海戦に参加したガレー船の実物大の復元模型の船底。大きいよね。スペインの港町バルセロナにある海洋博物館で見たもの。この海洋博物館はかつて造船所だった。14世紀から16世紀にかけて、ここで多くの船が造られたらしい。)

スペインのカタルーニャ地方の街バルセロナの海洋博物館で見たレパントの海戦のガレー船の実物大復元模型

メッシーナから出撃したスペインの艦隊の中には、銃を持つセルヴァンテスの姿もあった。彼はレパントの海戦で3発の銃弾を受け、左手の自由を失ったらしい。でも、34年後にはセルヴァンテスは小説「ドン・キホーテ」前編を出版し、スペインを代表する作家になるんだけどね。

総司令官ドン・フアン・デ・アウストリアとレパントの海戦の勝利

キリスト教国連合艦隊がメッシーナを出撃する数ヶ月前の5月、ローマ教皇ピウス5世の使者がスペインの首都マドリッドを訪れていた。教皇の使者はハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世に謁見し、キリスト教国連合艦隊を結成する同盟の書面に署名を得ると同時に、ドン・フアン・デ・アウストリアが艦隊の総司令官となることが決まったらしい。

このドン・フアン・デ・アウストリアとは、前スペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)の庶子にしてフェリペ2世の母違いの弟のこと。まだ24歳の若さだったけれども、教皇ピウス5世の強い要請により、艦隊の総司令官とされた。既にトルコ艦隊との海戦の経験もあり、スペイン南部アンダルシア地方古都グラナダ周辺で起きたモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)の反乱を鎮圧する戦いも経験していた。(ちなみに、17世紀初頭にモリスコはスペインから追放された。)

そして西暦1571年10月7日午前11時、ギリシャの西の海上でレパントの海戦が始まった。東からはオスマン・トルコ艦隊、西からはキリスト教国連合艦隊、それぞれ200隻を越える大艦隊が激突した。双方合わせて15万人近い兵士・水夫たちが戦い、2000門を越える砲が火を噴いたんだそうな。

激闘6時間、夕方5時には戦いが終わった。艦隊の過半の船と3万人を越える人員を失ったオスマン・トルコ艦隊の大敗だった。若干24歳のドン・フアン・デ・アウストリアは、レパントの海戦の勝利を得たキリスト教世界の英雄になった。

スペインのカタルーニャ地方の街バルセロナの海洋博物館で見たレパントの海戦のガレー船の実物大復元模型

上の画像はバルセロナの海洋博物館で見たガレー船の復元模型のデッキ部分なんだけど、この復元模型はレパントの海戦でドン・フアン・デ・アウストリアが乗っていたガレー船を模したものなんだそうな。大きさもさることながら、装飾も華やかだよね。

レパントの海戦の英雄ドン・フアン・デ・アウストリアのその後

レパントの海戦の英雄となったドン・フアン・デ・アウストリアは、その後も地中海でスペイン艦隊を率いてオスマン・トルコと戦っていた。でも、西暦1576年にはスペイン領ネーデルラント(今のオランダベルギー)の総督となり、スペイン軍を率いて現地に赴任している。

そのネーデルラントでは、ジャン・カルヴァンの教えに従うプロテスタントが反乱を起こし、同じくプロテスタントの女王エリザベス1世統治下のイングランドの支援を得て、スペインからの独立を目指して戦っていた。

総督として着任したドン・フアン・デ・アウストリアは、同じカトリックでイングランドの王位継承権を持つ前スコットランド女王メアリー・スチュアートと結婚し、エリザベス1世に代えて彼女をイングランドの女王とし、ネーデルラントのプロテスタントを孤立させようと考えた。ヘンリー8世の統治下にローマから訣別したイングランドをカトリックに引き戻そうと考えていた教皇グレゴリウス13世も、ドン・フアンの構想を支持していたらしい。

ところが、そのドン・フアン・デ・アウストリアは西暦1578年にネーデルラントで亡くなってしまった。レパントの海戦の英雄のあっけない死だった。

他方のネーデルラントでは、やがて北部(後のオランダ)は結局は独立を果たすもののカトリックが優位を取り戻した南部(後のベルギー)はスペイン側の手の中に戻っている。両者の争いはまだまだ続くんだけどね。

ベルギーの街アントワープにあるノートルダム大聖堂の内部

上の画像は、今のベルギー北部の街アントワープノートルダム大聖堂の内部の様子。このアントワープは北部のプロテスタントと南部を支配するスペイン軍との間の争奪戦の的となっていた。(ついでながら、17世紀にはこの大聖堂の中に画家ルーベンスが絵を描き、その絵をテーマに物語「フランダースの犬」が生み出されている。)

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