ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1536年、スイスのバーゼルでジャン・カルヴァンの「キリスト教綱要」が出版された。


ジャン・カルヴァンの「キリスト教綱要」

フランスに生まれたジャン・カルヴァンの「キリスト教綱要」の初版が出版されたのは1536年のこと。スイスの街バーゼルにおいてのことだった。(下の画像はスイスの街バーゼルを流れるライン川と橋の風景。読者の Kaoringo さんから頂戴した画像。)

スイスのバーゼルを流れるライン川と橋

このカルヴァンの著作は宗教改革最中のヨーロッパに広く影響を与え、あるいは論争を巻き起こし、西暦1559年に至るまで改訂や増補が行われ続けたんだそうな。

ちなみに、カトリックの方も黙って大人しくしていたわけじゃない。西暦1534年にフランスの首都パリの北にあるモンマルトルの丘で結成されたイエズス会などは、カトリックを擁護する動きを活発に行っていたんだ。

アルザス地方の街ストラスブールにて

宗教改革の思想家として名を上げたジャン・カルヴァンは、スイスの街ジュネーヴの宗教改革に参画した。でも、やがてジュネーヴから追放され、バーゼルを経て向かった先は、ライン川の中流にあるアルザス地方の街ストラスブールだった。

フランス東部アルザス地方の街ストラスブールにあるグーテンベルク像

そのストラスブールには、上の画像にあるグーテンベルク像も立っている。活版印刷術を開発したグーテンベルクは、このストラスブールの街に暮らしたこともあったんだそうな。このグーテンベルクの活版印刷があってこそ、「キリスト教綱要」が各国で読まれ、宗教改革に関するカルヴァンの思想が広く影響を及ぼしたわけだよね。

ちなみに、16世紀半ばのストラスブールではプロテスタントが強く、歴史あるストラスブール大聖堂もプロテスタントによって管理されていたんだそうな。但し、西暦1681年にフランス王ルイ14世太陽王がストラスブールを攻略した後、ストラスブール大聖堂もカトリックに戻されたらしいけどね。

フランスのユグノー戦争とブルボン家

パリ近郊にヴェルサイユ宮殿を造営したことで名高いフランス王ルイ14世太陽王だけど、西暦1685年にフォンテーヌブロー勅令を発するなど、ユグノー(フランスのカルヴァン派)を迫害している。でも、そもそも彼の祖父のブルボン家の初代フランス王アンリ4世は元々はユグノーで、ユグノー戦争の結果として王位を得たんだけどね。

カルヴァンの思想の影響を受けたカルヴァン派プロテスタント(フランスではユグノーと呼ばれた)が16世紀のフランスに広まり、その結果としてカトリックと対立してユグノー戦争が続いた。即位前のブルボン家のアンリ4世がヴァロワ王家の王女マルゴーとパリのノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた数日後にサン・バルテルミーの虐殺が起こったりもしたんだ。

フランスのロワール川のほとりのブロワ城

西暦1588年にはヴァロワ家のフランス王アンリ3世がカトリックの指導者ギーズ公を暗殺したこともあった。その現場が上の画像にあるロワール川のほとりのブロワ城だった。その翌年にはそのアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ王家が断絶してユグノーだったブルボン家のアンリ4世がフランス王となったわけだ。

スコットランドの長老派(プレスビテリアン)

カルヴァンの思想は、ジュネーヴでカルヴァンから直接に学んだジョン・ノックスによってスコットランドにも広められた。スコットランドのカルヴァン派プロテスタントは、長老派(プレスビテリアン)と呼ばれている。

スコットランドの女王メアリーは、フランス王フランソワ2世(上に書いたアンリ3世の兄)の王妃となっていたんだけど、フランソワ2世が亡くなり、西暦1561年にスコットランドに帰国している。でも、熱心なカトリックだった女王メアリー・スチュアートは長老派のスコットランドの人々と対立し、やがて退位させられ、ロッホ・レーベン(湖)の孤城に幽閉されている。

女王メアリー・スチュアートの息子のスコットランド王ジェームズ6世は、やがてイングランド王ジェームズ1世として即位した。その息子のイングランド王チャールズ1世はカトリック的な信仰をスコットランドに押し付けようとした。でも、反発した長老派を中心とするスコットランドの人々と戦争になった。

そのスコットランドとの戦争で苦しみ、挙句に資金不足に陥ったチャールズ1世。やがてはロンドンでイングランドの議会とも対立し、結局は清教徒革命によってイングランド王チャールズ1世の処刑に至ったというわけだ。

イギリス北部スコットランドのエディンバラ城で見たミリタリー・タトゥー

風が吹けば桶屋 ・・・ じゃないけど、スイスで出版されたカルヴァンの一冊の本が、フランス・スコットランド・イングランドなどの王家の運命にまで影響したということかな。(上の画像はスコットランドのエディンバラ城で見た夏の人気のイベント「ミリタリー・タトゥー」の様子。)

カルヴァン派のオランダとカトリックのベルギー

ジャン・カルヴァンの教えはハプスブルク家の支配するネーデルラントにも広がっていった。しかし、ネーデルラントの支配者ハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世は異端審問を厳しく行い、カルヴァン派を中心とするプロテスタントの人々を処刑した。対するネーデルラントのカルヴァン派貴族たちはゴイセン(乞食党)と呼ばれる同盟を結んで結束を固めた。

そして西暦1566年、カルヴァン派の貴族たちはブリュッセル(今のベルギーの首都)を訪れ、ハプスブルク家の総督に対して異端審問の廃止を求めたらしい。またアントワープにおいてもカルヴァン派が蜂起し、ノートルダム大聖堂を略奪して聖像などを破壊したらしい。対するハプスブルク家はカルヴァン派の抑え込みの為にネーデルラントにスペイン軍を投入している。レパントの海戦の勝利者ドン・フアン・デ・アウストリアもここに駐屯していて病気で亡くなっている。

そんなわけでネーデルラントを舞台にカルヴァン派のゴイセンとカトリックを擁護するハプスブルク家が戦いを続けた。そして西暦1579年、ネーデルラント南部ではカトリックとハプスブルク家に従うアラス同盟が成立。他方のネーデルラント北部ではカルヴァン派のユトレヒト同盟が結成された。

西暦1609年、長く続いた戦いに疲れ、ネーデルラント南部を維持したハプスブルク家とネーデルラント北部を支配するカルヴァン派との間に休戦が成立。ネーデルラント南部からはカルヴァン派プロテスタントが北部へと移住していったらしい。

そして西暦1648年、三十年戦争を終息させたウェストファリア条約によってネーデルラント北部(今のオランダ)の独立が認められた。他方、ネーデルラント南部はその後の紆余曲折はあるものの現在のベルギーとなっている。ちなみに、オランダでは今もカルヴァン派が多数であり、他方のベルギーではカトリックが多数派を占めているんだそうな。

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