ブルボン家のフランス王アンリ4世の即位西暦1588年、フランス王アンリ3世はブロワ城においてカトリック同盟の指導者ギーズ公アンリを暗殺している。その結果、フランスにおけるカトリック勢力の激しい反発を惹き起こしてしまったんだ。そして翌年の西暦1589年、カトリックの修道士がフランス王アンリ3世を暗殺した。ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン家のフランス王アンリ4世が即位することになった。
上の画像は、フランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂にあるフランス王家の墓所で見たフランス王アンリ4世の胸像なんだ。(フランス王アンリ4世は即位後も色々と苦労している。アンリ4世が首都パリに入城することができたのも西暦1594年だった。その話を書くと長くなるから、また別のページに。)
このアンリ4世が少年の頃の話なんだけど、西暦1564年にフランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチが大巡幸に出た。その途中、フランス南部プロヴァンス地方で予言者ノストラダムス(西暦1555年に「ノストラダムスの大予言」を出版している)と会っている。その際に少年だったアンリ4世も同席したんだけど、ノストラダムスがアンリ4世はフランス王になると予言したとか、しなかったとか ・・・ 。 フランス王アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディチフランス王アンリ3世が亡くなってアンリ4世が即位する数ヶ月前、つまりはカトリック同盟の指導者ギーズ公アンリが暗殺されて二週間ほど後のことなんだけど、かつてのフランス王アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディチ(下の画像はパリ郊外のサン・ドニ大聖堂にある彼女の墓碑)が亡くなっている。
子宝に恵まれ、4人の息子のうちの3人をフランス王としながらも、ヴァロワ家の断絶に至ってしまった。その最後の息子の死を見ずに済んだことがせめてもの幸いと言って良いのかな。
フランス料理を発展させたカトリーヌ・ド・メディチ上の画像を見ればわかるけれども、カトリーヌ・ド・メディチはとってもふくよかな女性だったみたいだね。言うまでもないことだけど、彼女は美味しいものを食べることが好きだったんだろうね。イタリアのフィレンツェ出身のカトリーヌ・ド・メディチが嫁いだ頃のフランスでは、宴会などに女性は同席しないものだったらしい。そんな場に女性が参加して料理を楽しむ社会にしたのは、王妃カトリーヌ・ド・メディチの功績なんだそうな。 彼女が嫁いだ頃のフランスには、フォークは無かったらしい。つまり、当時のフランスの人々は手づかみで食事をしていた。そこにフォークを持ち込んだのは、王妃カトリーヌ・ド・メディチだった。更にはフランス料理に様々な野菜を取り入れ、豊かなソースを使うように変えたことなども、王妃カトリーヌ・ド・メディチの貢献が大きいらしい。
上の画像は、フランス南部プロヴァンス地方の古都エクサン・プロヴァンス(通称エクス)のレストランのテーブルで撮影したものなんだけど、王妃カトリーヌ・ド・メディチがフランスに来なければ、この料理やテーブルの様子も違っていただろうね。(ついでながら、フランスに来たカトリーヌの結婚式は、フランス南部の街マルセイユで挙行された。)
フランス王アンリ3世の王妃ルイーズ・ド・ロレーヌ・ヴォーデモンフランス王アンリ3世が暗殺される14年前の西暦1575年、彼が結婚したのがルイーズ・ド・ロレーヌ・ヴォーデモンだった。夫アンリ3世が暗殺された後、彼女は義母カトリーヌ・ド・メディチから相続したロワール川近くのシュノンソー城に引きこもって暮らしたらしい。(下の画像はシュノンソー城にある彼女の寝室。)
ルイーズ・ド・ロレーヌ・ヴォーデモンは、常に白い喪服を着ていたらしい。また彼女はシュノンソー城に住み込ませた修道女に取り囲まれて日々を送ったんだそうな。
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