フランス王シャルル9世と王母の大巡幸出発西暦1550年に生まれたフランス王シャルル9世の父アンリ2世が亡くなった時、シャルル9世は9歳だった。父の王位を継承した兄のフランソワ2世(王妃はスコットランドの女王だったメアリー・スチュアート)が亡くなり、フランス王となったシャルル9世は10歳だった。さすがにその幼さで国政と担うこともできず、王母カトリーヌ・ド・メディチ(メディシス)が摂政として国政を取り仕切ったんだ。ところが、16世紀のフランスはとっても難しい状況にあった。カトリックとユグノー(ジャン・カルヴァンの思想に従うフランスのプロテスタント)の対立が激化し、各地で戦いや虐殺が続いていた。 フランス王シャルル9世が成人となったと宣言され(と言っても13歳なんだけど ・・・ )、王母が摂政の役割を終えたとされたのは、西暦1563年のことだった。宗教対立で荒廃したフランス各地を巡り、成人したばかりの王に対する人々の忠誠を取り戻すために、王と王母が大巡幸に出発したのは翌年の西暦1564年のことだった。
フランスの首都パリを出て東に向かったフランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチ(メディシス)は、やがてリヨンに到着した。カトリックが多数派を占めるリヨンでは、その8年後に多くのユグノーが虐殺されることになる。大巡幸の時の王と王母は知る由もないけど。(上の画像はリヨンのサン・ジャン大聖堂。)
ポン・デュ・ガール水道橋を訪ねたフランス王シャルル9世と王母やがてフランス南部プロヴァンス地方に至ったフランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチ(メディシス)は、古代ローマ帝国時代のポン・デュ・ガール水道橋(下の画像)を見に行っている。
このポン・デュ・ガール水道橋は、異説はあるんだけど、一般的には古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの副官で娘婿のアグリッパによって紀元前19年頃に築かれたと言われている。
フランス王シャルル9世と王母の大巡幸があった16世紀には、さすがの水道橋も水を流すことは出来なくなっていた。でも、ガルドン川を渡る橋として使われていたんだそうな。
予言者ノストラダムスと会ったフランス王シャルル9世と王母フランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチ(メディシス)は、プロヴァンス地方の街サロンを訪ね、そこに住む著名な予言者ノストラダムスと面談している。ちなみに、かの有名な「ノストラダムスの大予言」が出版された西暦1555年にカトリーヌ・ド・メディチと夫のフランス王アンリ2世は、ノストラダムスをパリに呼んで会っているんだそうな。その後、王と王母は旅を続けてアルルに滞在したんだけど、ノストラダムスをアルルに呼んで再び話をしている。(下の画像はアルルの街並みとローヌ川。このアルルは画家ゴッホが大好きな街だった。)
余談ながら、このノストラダムスと会った時、ブルボン家のアンリ少年が同席したらしい。ノストラダムスはこの少年がやがてフランス王になると予言したとも言われている。この少年こそが、ブルボン家の初代フランス王アンリ4世なんだそうな。
激化するフランスの宗教戦争とフランス王シャルル9世の死フランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチ(メディシス)は、2年間に渡ってフランス各地を訪れたらしい。その結果として国内の融和が進み、若い王に対する忠誠心が蘇った ・・・ となれば素晴らしいんだけど、実際には逆の事態となっていたみたい。西暦1567年にはユグノーとカトリックとの間の戦火が再燃してしまった。元々ユグノーが多数派を占めていたラングドックの街ニームにおいては、ユグノーがカトリックの人々を虐殺したらしい。(下の画像はニームの街に残る古代ローマ帝国時代の円形闘技場。)
そして西暦1572年、ユグノーとカトリックとの融和を図る為に虚構されたのが、王の妹のマルグリット(マルゴー)とユグノーの指導者だったブルボン家のアンリ(あのノストラダムスが王になると予言した少年)との結婚式だった。その結婚式は、パリのノートルダム大聖堂で挙行されたんだけど、ユグノーだった花婿は大聖堂の中には入らなかったんだそうな。
その後にフランス王となったのは、かつてノストラダムスが王となると予言したブルボン家のアンリ(アンリ4世)だった。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |