ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1588年、フランス王アンリ3世がロワール川のほとりのブロワ城においてカトリック同盟の指導者ギーズ公アンリを暗殺した。


フランス王アンリ3世の即位

西暦1559年にフランス王アンリ2世が亡くなった。故アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチとの間には4人の王子が生まれており、その長男がフランス王フランソワ2世として即位している。(下の画像はフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチの像。フランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂にある。)

フランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂にあるフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチの像

フランス王フランソワ2世は、即位の前年にスコットランドの女王メアリー・スチュアートパリのノートルダム大聖堂で結婚していた。ところが、後継者を得ることも無く、即位の翌年に亡くなってしまったんだ。

続いて即位した弟のフランス王シャルル9世は10歳の少年であり、王母カトリーヌ・ド・メディチが摂政となった。しかし、フランス国内ではジャン・カルヴァンの教えに従うプロテスタント(ユグノー)とカトリックの対立が激しくなり、宗教戦争(ユグノー戦争)が始まってしまったんだ。

そんな状況の西暦1574年、シャルル9世が亡くなった。先にポーランド王となっていた三男のアンリがポーランドを捨てて帰国し、フランス王アンリ3世として即位した。

王母カトリーヌ・ド・メディチのお気に入りだったアンリ3世

子宝に恵まれた故アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチだったけれども、アンリ3世は特に王母のお気に入りの息子だったんだそうな。

フランスのロワール川近くのシュノンソー城にあるギャラリー

そんなお気に入りの息子のフランス王即位を祝う為に、王母カトリーヌ・ド・メディチは、ロワール川の近くのシュノンソー城で盛大な舞踏会を開いたらしい。(上の画像はその舞踏会の為に王母がシュノンソー城内に作らせたギャラリーの様子。)

激化するフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)

でもね、フランス国内の状況は、華やかな舞踏会を楽しんでいるようなものじゃなかったんだ。カトリックとプロテスタント(ユグノー)との間の戦いは更に激化していた。

加えて、西暦1584年にはフランス王アンリ3世の末弟(王母カトリーヌ・ド・メディチにとっては四男)が病気で亡くなってしまったんだ。その結果、フランス王国の王位継承のルールに従えば、ブルボン家のアンリが王位継承権者のトップということになる。でも、そのブルボン家のアンリはプロテスタント(ユグノー)だった。

プロテスタント(ユグノー)がフランス王となることを心配したカトリック勢力は、カトリック同盟の指導者ギーズ公アンリの下に結束し、攻撃的な動きを始めた。そしてカトリックの根強いパリの人々は、煮え切らない態度をとるフランス王アンリ3世に対して蜂起したらしい。

シャルトル・ブルーのステンド・グラスで名高いシャルトル大聖堂(フランス)

不測の事態を避ける為、フランス王アンリ3世は首都パリを脱出し、シャルトルに移ったんだそうな。(上の画像はシャルトル・ブルーのステンド・グラスで名高いシャルトル大聖堂パリから特急列車でシャルトルまで1時間ほどで行ける。)

フランス王アンリ3世がブロワ城でギーズ公アンリ暗殺

その後、フランス王アンリ3世はロワール川のほとりのブロワで三部会を開催し、カトリック同盟の指導者のギーズ公アンリも招いたんだ。

フランスのロワール川のほとりのブロワ城にあるギーズ公アンリ暗殺の部屋

そして、ブロワ城内でフランス王アンリ3世の護衛兵たちがギーズ公アンリを暗殺し、その弟のギーズ枢機卿も斬殺している。(上の画像はロワール川のほとりのブロワ城にあるギーズ公アンリが暗殺された部屋の様子。)

フランス王アンリ3世は、これで事態を鎮静化したかったらしい。しかし結果は逆に火に油を注ぐことになってしまった。カトリック同盟やパリの人々は激高し、フランスの宗教戦争(ユグノー戦争)は泥沼にはまってしまった。

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