フランス王アンリ3世の即位西暦1559年にフランス王アンリ2世が亡くなった。故アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチとの間には4人の王子が生まれており、その長男がフランス王フランソワ2世として即位している。(下の画像はフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチの像。フランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂にある。)
フランス王フランソワ2世は、即位の前年にスコットランドの女王メアリー・スチュアートとパリのノートルダム大聖堂で結婚していた。ところが、後継者を得ることも無く、即位の翌年に亡くなってしまったんだ。
王母カトリーヌ・ド・メディチのお気に入りだったアンリ3世子宝に恵まれた故アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチだったけれども、アンリ3世は特に王母のお気に入りの息子だったんだそうな。
そんなお気に入りの息子のフランス王即位を祝う為に、王母カトリーヌ・ド・メディチは、ロワール川の近くのシュノンソー城で盛大な舞踏会を開いたらしい。(上の画像はその舞踏会の為に王母がシュノンソー城内に作らせたギャラリーの様子。)
激化するフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)でもね、フランス国内の状況は、華やかな舞踏会を楽しんでいるようなものじゃなかったんだ。カトリックとプロテスタント(ユグノー)との間の戦いは更に激化していた。加えて、西暦1584年にはフランス王アンリ3世の末弟(王母カトリーヌ・ド・メディチにとっては四男)が病気で亡くなってしまったんだ。その結果、フランス王国の王位継承のルールに従えば、ブルボン家のアンリが王位継承権者のトップということになる。でも、そのブルボン家のアンリはプロテスタント(ユグノー)だった。 プロテスタント(ユグノー)がフランス王となることを心配したカトリック勢力は、カトリック同盟の指導者ギーズ公アンリの下に結束し、攻撃的な動きを始めた。そしてカトリックの根強いパリの人々は、煮え切らない態度をとるフランス王アンリ3世に対して蜂起したらしい。
不測の事態を避ける為、フランス王アンリ3世は首都パリを脱出し、シャルトルに移ったんだそうな。(上の画像はシャルトル・ブルーのステンド・グラスで名高いシャルトル大聖堂。パリから特急列車でシャルトルまで1時間ほどで行ける。)
フランス王アンリ3世がブロワ城でギーズ公アンリ暗殺その後、フランス王アンリ3世はロワール川のほとりのブロワで三部会を開催し、カトリック同盟の指導者のギーズ公アンリも招いたんだ。
そして、ブロワ城内でフランス王アンリ3世の護衛兵たちがギーズ公アンリを暗殺し、その弟のギーズ枢機卿も斬殺している。(上の画像はロワール川のほとりのブロワ城にあるギーズ公アンリが暗殺された部屋の様子。)
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