メディチ家の第3代トスカナ大公フェルディナンド1世イタリアの名家メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチや国父コジモ、そしてロレンツォ・イル・マニフィコなどを輩出して、古都フィレンツェの実質的な支配者となってきたよね。その後は色々と紆余曲折があったんだけど、傍流(国父コジモの弟ロレンツォの子孫)出身のコシモ1世は初代トスカナ大公となり、名実共にフィレンツェとトスカナ地方の専制君主となったんだ。そしてこのページの主役であるフェルディナンド1世はコシモ1世の息子なんだけど、兄である第2代トスカナ大公フランチェスコ1世の死によって、第3代トスカナ大公となったわけだ。(下の画像はフィレンツェのメディチ家礼拝堂で見たフェルディナンド1世の像。ポルセリーノを制作したピエトロ・タッカの作品だそうな。)
西暦1587年10月、フィレンツェから20kmほどのところにあるメディチ家の別荘に、第2代トスカナ大公フランチェスコ1世と大公妃、そして大公の弟のフェルディナンドたちが集まり、秋の狩猟を楽しんでいた。そこでの夜、フランチェスコ大公が倒れた。
トスカナ大公国の衰退を押しとどめたフェルディナンド1世兄の死によって第3代トスカナ大公となったフェルディナンド1世は独身だった。というのも、西暦1562年に13歳の少年だった彼は枢機卿になっていたから、結婚は許されていなかったんだ。やがて枢機卿の職を辞した彼は、西暦1589年に結婚している。花嫁はフランス王アンリ2世の孫にあたるクリスティナ・ド・ロレーヌ。その祖母はメディチ家出身の王妃カトリーヌ・デ・メディチだった。(下の画像は王妃カトリーヌ・ド・メディチの墓碑。フランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂の地下のフランス王家の墓所で見ることができる。)
花嫁は莫大な持参金を大公フェルディナンド1世にもたらしたらしい。更に彼女はウルビーノ公領についても王妃カトリーヌ・ド・メディチの権利を継承することになっていた。王妃カトリーヌは父親であるメディチ家のウルビーノ公ロレンツォから継承していたわけだ。
フェルディナンド1世によるトスカナ大公国の自立性の回復大公フェルディナンド1世の父親のコシモ1世は初代トスカナ大公として専制的な支配者となった。けれども、彼の支配の確立はハプスブルク家の支援に基づいていた。フィレンツェがシエナを征服した際にも、ハプスブルク家の軍事的な支援があったんだ。そんなわけで、トスカナ大公国はハプスブルク家に対して従属的な位置にあったらしい。そんなトスカナ大公国を継承したフェルディナンド1世は、フランスに接近していったんだ。自分の花嫁にフランス王の孫を迎えたこともそう。更にはブルボン家のフランス王アンリ4世に対する支援もその一環だね。(下の画像はサン・ドニ大聖堂のフランス王家の墓所にあるアンリ4世の胸像。)
フランス王として即位したアンリ4世なんだけど、彼がプロテスタントだったこともあり、国内のカトリックからの激しい抵抗に苦労していた。そんな彼を支援したのがトスカナ大公だった。更にフェルディナンド1世はアンリ4世にカトリックへの改宗を勧め、他方で改宗を受け入れたアンリ4世を認めるようにとローマ教皇に働きかけてもいる。
フェルディナンド1世が着手したメディチ家の礼拝堂の建設即位当初には兄夫妻暗殺という黒い噂もあった第3代トスカナ大公フェルディナンド1世なんだけど、内政・外交の両面にわたる着実な努力が実を結び、先代の頃から衰え始めていたフィレンツェとトスカナ大公国は勢いを盛り返したらしい。そんな彼はフィレンツェのサン・ロレンツォ教会に付属するメディチ家の礼拝堂の建設も始めている。その教会には以前からメディチ家の墓所があったし、メディチ家礼拝堂の建設はコシモ1世も考えていたことなんだけど、実際に工事に着手したのはフェルディナンド1世だったそうな。(下の画像はそのメディチ家の君主の礼拝堂の内部なんだけど、床にはメディチ家の紋章も見えているね。)
かくして、トスカナ大公国の中興の英主とでも称すべき彼は、西暦1609年に亡くなっている。大公位とメディチ家の礼拝堂の工事は、息子のコシモ2世によって引き継がれたんだそうな。
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