ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1586年、ローマ教皇シクストゥス5世がサン・ピエトロ大聖堂の前にオベリスクを立てさせた。


ローマ教皇シクストゥス5世とサン・ピエトロ大聖堂の前のオベリスク

イタリアの首都ローマを訪れたならば、カトリックでなくとも、あるいはキリスト教徒でなくとも、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂へ行ってみたいよね。そのサン・ピエトロ大聖堂の前には古代エジプトのオベリスク(下の画像)が立っているんだ。

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂とオベリスク

このオベリスクは古代ローマ帝国の第3代皇帝カリグラの命によって紀元前37年にエジプトから運ばれてきたものなんだそうな。それを西暦1586年にここに立てさせたのは、とっても興味深い業績を残したローマ教皇シクストゥス5世だった。

ちょいと余談なんだけど、このオベリスクが立っているサン・ピエトロ広場なんだけど、イタリア・バロックの巨匠ベルニーニが整備したのは17世紀のこと。というわけで、このオベリスクが立てられた時点では今のような広場にはなっていなかったみたい。

修道士から枢機卿となったシクストゥス5世

歴代のローマ教皇の中には、フィレンツェのメディチ家の出身のレオ10世クレメンス7世などのように豪商の家に生まれた人物や貴族の家柄の人物が多いよね。でも、このシクストゥス5世は貧しい庶民の家に生まれた人物だった。子供の頃には家畜の世話をして働いたんだそうな。

スペインの古都トレドの大聖堂

やがて彼はフランシスコ会の修道士となり、次第に知られた人物となっていった。ローマ教皇の命によって海の都ヴェネツィアスペインの古都トレド(上の画像はトレド大聖堂)などに派遣されたりもしたらしい。そして枢機卿となったのは西暦1570年のことだった。

ローマ教皇シクストゥス5世

そして西暦1585年、ローマ教皇シクストゥス5世が誕生した。その即位の式典には、たまたまローマに滞在していた日本の天正遣欧少年使節も参列している。(下の画像はサン・ピエトロ大聖堂のクーポラなんだけど、天正遣欧少年使節がローマにいた頃はまだ工事中だった。)

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂のクーポラ

教皇となったシクストゥス5世は、まず教皇領の治安の建て直しに取り組んだらしい。更にはプロテスタントに対するカトリックの勢力挽回をも目指していた。ジャン・カルヴァンの影響を受けたフランスのユグノーでもあったブルボン家のアンリ4世(後のフランス王)を破門してもいる。但し、カトリックの擁護者でもあったハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世との関係はうまくいってはいなかったらしけどね。

シクストゥス5世による財政再建と建築工事

シクストゥス5世は、ローマ教皇庁の財政再建にも成功したらしい。その結果として豊かになった資金を使って、様々な建築工事を行っている。サン・ピエトロ大聖堂の前にオベリスクを立てたのもその一つなんだけど、その他にもサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のあるポポロ広場などにもオベリスクを立てている。

サン・ピエトロ大聖堂の上のクーポラ(円屋根)も、彼の統治下にほぼ完成したんだそうな。またヴァティカン美術館・博物館の出口近くにあるヴァティカン図書館の中のシクストゥスの大広間を建てさせたのも、ローマ教皇シクストゥス5世だった。

イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノにあるトラヤヌスの記念柱

他方で彼は破壊をも行っている。例えば、上の画像はローマのフォロ・ロマーノの一画にあるトラヤヌスのフォロの様子なんだけど、画像の左手に見えているトラヤヌスの記念柱の上にあった古代ローマ帝国皇帝トラヤヌスの像を取り外し、代わりに聖ペテロ像を立てさせたのも彼だった。建設と破壊は表裏一体のものなのかもしれないけどね。いずれにせよ、このシクストゥス5世は際立った業績を残したローマ教皇の一人とされているんだそうな。

次のページ



姉妹サイト ヨーロッパ三昧

ヨーロッパ三昧

このサイト「ヨーロッパの歴史風景」の本館が「ヨーロッパ三昧」です。イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ギリシャ・トルコ・エジプト・ロシア・アゼルバイジャンなど25国45編の旅行記を掲載しています。こちらも遊びに行ってみてくださいね。

「ヨーロッパ三昧」のトップ・ページのURLは、 http://www.europe-z.com/ です。

Copyright (c) 2013 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
管理・運営 あちこち三昧株式会社
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。