フィレンツェのメディチ家出身のローマ教皇レオ10世イタリアの古都フィレンツェを訪れた人の殆どがウフィツィ美術館にも入るだろうね。そこで下の画像の絵を眼にしただろうか。イタリア・ルネサンスを代表する画家ラファエロの作品「教皇レオ10世とジュリオ・デ・メディチ枢機卿およびルイジ・デ・ロッシ枢機卿」なんだ。
上の画像の絵の中央に描かれているのが、フィレンツェの名門メディチ家出身のジョヴァンニ・デ・メディチ、西暦1513年に即位したローマ教皇レオ10世だね。ちなみに、その左手に描かれているのは彼の従弟(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノ・デ・メディチの息子)で、やがてローマ教皇クレメンス7世となった人物なんだ。
名門の生まれだけど苦労を重ねたローマ教皇レオ10世イタリアを代表する ・・・ というよりも、ヨーロッパを代表する名門メディチ家のお坊ちゃまならば、苦労することも無く、お金の力でローマ教皇になったに違いない ・・・ と思うよね。ところが、レオ10世はかなりの苦労を積み重ねているんだ。西暦1492年には16歳の若さで枢機卿となっている。姉が当時のローマ教皇インノケンティウス8世の息子さんに嫁いだことが大きかったみたい。そこまでは良かった。 でも、その年に父のロレンツォ・デ・メディチが亡くなり、長兄のピエロ・デ・メディチが当主となった。その2年後、ナポリの王位を主張するフランス王シャルル8世のイタリア侵入のあおりをくらい、メディチ家はフィレンツェから追放されてしまった。後のローマ教皇レオ10世は18歳だった。 以後、彼は弟のジューリオと共に各地を、イタリアのみならずドイツ・オランダ・フランスなどを転々としたらしい。その間、メディチ家の復活を目指していた長兄ピエロ・デ・メディチは西暦1503年に亡くなっている。その年、彼はローマに赴き、教皇アレクサンデル6世に迎えられている。 その後、次のローマ教皇ユリウス2世の承認の下、スペイン軍の力を借り、枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチ(後の教皇レオ10世)がフィレンツェにメディチ家の支配を復活させたのが西暦1512年のことだった。18歳の時に追放されてから既に18年が経っていた。
上の画像はメディチ家ゆかりのピッティ宮殿の裏手にあるボボリ庭園のカフェから眺めたフィレンツェの風景。中央に見えているのがドゥオモ(大聖堂)だね。18年ぶりにフィレンツェに入ることが出来た彼はこの街の眺めを感慨深く見ただろうか。
ちなみに、メディチ家の復帰の直後には、マキャベリが失業している。彼はフィレンツェの共和政府の為に働いていたからね。でも、その後は「君主論」を著し、それをメディチ家に送って就活しようとしていたらしいけどね。
ローマ教皇レオ10世とイタリア・ルネサンスフィレンツェにメディチ家の支配を復活させた彼は、実質的な支配を握りつつも、弟のジュリアーノを街の統治者とした。その翌年の西暦1513年、ローマ教皇ユリウス2世が亡くなった。ジョヴァンニ・デ・メディチがその後任に選ばれ、ローマ教皇レオ10世として即位したわけだ。パーティやイベント、そして贅沢が大好きだった教皇レオ10世は、芸術家の保護者でもあった。先代ユリウス2世によって招聘されてヴァティカンでフレスコ画を描いていたラファエロにも制作を続けさせている。
上の画像はヴァティカン美術館・博物館の中にある火災の間に残るラファエロ工房の作品「オスティアの戦い」なんだけど、ローマ教皇レオ4世によって祝福されたキリスト教徒連合艦隊のイスラム艦隊に対する勝利を描いたものなんだそうな。
余談ながらミケランジェロは子供の頃にメディチ家で保護されている。子供時代の教皇レオ10世とミケランジェロは共に食卓を囲んだこともあったんだそうな。でも、実を言えば教皇レオ10世はミケランジェロがちょいと苦手だったのかも。ローマから彼を遠ざけ、フィレンツェに送ってサン・ロレンツォ教会(メディチ家礼拝堂がある)で制作をさせたのはそのせいだとか。
ローマ教皇レオ10世と宗教改革先代ユリウス2世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂(下の画像)の建設を始めたことでも名高いよね。その建設工事を継続したことも、ローマ教皇レオ10世の業績とされているんだ。
ところが、この大聖堂の建設工事には巨額の資金が必要だった。その資金を調達する為に教皇レオ10世が行ったのが、免罪符(贖宥状)の売り出しだった。つまり、お金を払えば犯した罪が許されるというわけだ。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |