マキャベリの「君主論」における君主の美徳ニッコロ・マキャベリは、世に名高い「君主論」の第18章において君主の美徳をいくつか列挙している。「敬虔」「慈悲」「信義」 ・・・ などなど。でも、彼は言う。これらの美徳を頑固一徹に守り抜くのはむしろ害をなし、それらを持ち合わせているような外見を保つことが意義深いのだと。そんな君主として見習うべき例とされているのが、ローマ教皇アレクサンデル6世だった。教皇の言葉に真実は全く無かったにも拘わらず、その言葉に人々を動かす力があったことに、マキャベリは感嘆している。(つまりは教皇は人をだますことがとっても上手だったと ・・・ 。)
余談ながら、教皇アレクサンデル6世はスペインのヴァレンシア地方から出たボルジア家の出身だった。そのボルジア家の紋章が雄牛なんだけど、ローマのヴァティカン美術館・博物館の奥のボルジアの間の天井には、ボルジア家の雄牛(上の画像)が残されている。
ライオンの獰猛さとキツネの狡猾さ豊かではなかったものの由緒ある貴族だったマキャベリの実家には、古代ギリシャ・ローマの古典もあった。そんな古典を読んで育った彼は、古代ローマ帝国の皇帝たちにも言及している。その中でも「君主論」第19章で君主の手本として挙げているのが、古代ローマ帝国の皇帝セプティミウス・セウェルスだった。(下の画像はイギリスの首都ロンドンの大英博物館で見たセウェルス帝の像。)
この皇帝セウェルスは君主が持つべきライオンの獰猛さとキツネの狡猾さを併せ持っていたとマキャベリは評価している。彼の欲深さを人々は恨んでいたけれども、兵士たちが皇帝を高く評価していたことによって、人々の抱く恨みは押さえ込まれたと書かれている。
君主の大事業が臣下をまとめるマキャベリは、イタリアで会った同時代人や、古典で学んだ古代ローマ皇帝などに限らず、外国の君主たちについても言及している。例えば「君主論」第21章ではアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王としてはフェルナンド5世)を誉めている。(下の画像はスペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダの王室礼拝堂にあるフェルナンド2世の騎馬像。)
彼がアラゴン王として即位したのが西暦1479年のこと。直ちに準備を始め、西暦1482年にはスペインに残る最後のイスラム王朝の本拠グラナダに軍を進めた。そして10年後の西暦1492年にスペインのレコンキスタ(国土回復運動)を完了させたわけだ。
他方で、その後もスペインで抑圧されたモリスコやイスラム教徒、そしてユダヤ人たちは国外に移住していった。その移住先の一つがフィレンツェだった。特に第3代トスカナ大公フェルディナンド1世は積極的に彼らを受け入れ、それがトスカナ大公国の経済振興に役立ったらしい。
「君主論」を書いて就活しようとしたマキャベリメディチ家を追放したフィレンツェを支配したサヴォナローラが処刑された後、フィレンツェの共和政府で書記官として貢献したのがニッコロ・マキャベリだった。でも、やがて共和政府は倒され、メディチ家が復帰し、マキャベリは失業してしまった。そんなニッコロ・マキャベリが山荘に隠棲しつつ就活の為に書いたのが、君主のあるべき姿を論じた「君主論」だった。西暦1513年にフィレンツェの統治者となったジュリアーノ・デ・メディチ(大ロレンツォの三男にして教皇レオ10世の弟)に献呈し、職を得ようとしたが果たせず。 西暦1516年にはウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォ)に「君主論」を献呈している。でも、やはり職を得ることはできなかった。小ロレンツォはマキャベリから贈られた小難しい本よりも、猟犬に夢中だったなんて話もある。 そんな失意のニッコロ・マキャベリもやがて枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)と面談し、フィレンツェの歴史の本を書く仕事を請けている。しかし、その報酬は乏しく、彼は生活の為に債権取り立ての仕事をしたこともあるらしい。 その後も、ニッコロ・マキャベリの著作活動は続いている。この時期の彼の著作をいくつか挙げれば、「ディスコルシ」「戦争の技術」「マンドラーゴラ」「クリツィア」「大悪魔ベルファゴール」「黄金のろば」などなど。題名が興味深いけど、彼は喜劇・寓話・叙事詩なども著していたそうな。中には、各地で上演された喜劇もあるらしい。
そんなニッコロ・マキャベリが亡くなったのは西暦1527年6月のこと。皇帝カール5世の軍によるローマ劫略(サッコ・デ・ローマ)の1ヵ月後のことだった。上の画像はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会にある彼のお墓の様子なんだ。
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