ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1527年、「君主論」を著したニッコロ・マキャベリが亡くなり、イタリアの古都フィレンツェに葬られた。


マキャベリの「君主論」における君主の美徳

ニッコロ・マキャベリは、世に名高い「君主論」の第18章において君主の美徳をいくつか列挙している。「敬虔」「慈悲」「信義」 ・・・ などなど。でも、彼は言う。これらの美徳を頑固一徹に守り抜くのはむしろ害をなし、それらを持ち合わせているような外見を保つことが意義深いのだと。

そんな君主として見習うべき例とされているのが、ローマ教皇アレクサンデル6世だった。教皇の言葉に真実は全く無かったにも拘わらず、その言葉に人々を動かす力があったことに、マキャベリは感嘆している。(つまりは教皇は人をだますことがとっても上手だったと ・・・ 。)

イタリアの首都ローマのヴァティカン博物館・美術館の中のボルジアの間で見たボルジア家の紋章の雄牛

余談ながら、教皇アレクサンデル6世はスペインのヴァレンシア地方から出たボルジア家の出身だった。そのボルジア家の紋章が雄牛なんだけど、ローマヴァティカン美術館・博物館の奥のボルジアの間の天井には、ボルジア家の雄牛(上の画像)が残されている。

ついでながら、マキャベリは教皇アレクサンデル6世の息子のチェーザレ・ボルジアについても「君主論」第17章で述べている。彼の血も涙も無い冷酷さがあればこそ、ロマーニャ地方の統一と秩序と平和を回復させることができたのだと。へたな温情はかけるべきではないと。

そのチェーザレ・ボルジアなんだけど、やがて父の教皇が亡くなった時、自分もマラリアによって病床にいた。その結果として好ましい教皇を即位させることに失敗し、失脚に追い込まれている。

マキャベリはそんなチェーザレ・ボルジアとローマで会った際に彼から聞いた言葉を伝えている。父の死に備えて対策は立てておいたが、その時に自分が重病で寝込んでいるとは思いもしなかったと。ちなみに、マキャベリはフィレンツェの書記官として働いている頃に、外交使節として派遣され、チェーザレ・ボルジアと何度か交渉をしたんだそうな。

ライオンの獰猛さとキツネの狡猾さ

豊かではなかったものの由緒ある貴族だったマキャベリの実家には、古代ギリシャ・ローマの古典もあった。そんな古典を読んで育った彼は、古代ローマ帝国の皇帝たちにも言及している。

その中でも「君主論」第19章で君主の手本として挙げているのが、古代ローマ帝国の皇帝セプティミウス・セウェルスだった。(下の画像はイギリスの首都ロンドン大英博物館で見たセウェルス帝の像。)

イギリスの首都ロンドンの大英博物館にある古代ローマ帝国皇帝セプティミウス・セウェルスの像

この皇帝セウェルスは君主が持つべきライオンの獰猛さとキツネの狡猾さを併せ持っていたとマキャベリは評価している。彼の欲深さを人々は恨んでいたけれども、兵士たちが皇帝を高く評価していたことによって、人々の抱く恨みは押さえ込まれたと書かれている。

ちなみに、マキャベリは皇帝セウェルスの息子のカラカラ帝についても、他に例を見ない獰猛さと残忍さを持っていたと評価している。でも、自分の軍の守備隊長の身内を殺したことについては非難している。その隊長によってカラカラ帝は背後から殺害されたらしい。(皇帝が道端で立ち・ョンをしている時に殺されたという話もある。)

君主の大事業が臣下をまとめる

マキャベリは、イタリアで会った同時代人や、古典で学んだ古代ローマ皇帝などに限らず、外国の君主たちについても言及している。例えば「君主論」第21章ではアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王としてはフェルナンド5世)を誉めている。(下の画像はスペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダ王室礼拝堂にあるフェルナンド2世の騎馬像。)

スペインの古都グラナダの王室礼拝堂で見たアラゴン王フェルナンド2世の騎馬像

彼がアラゴン王として即位したのが西暦1479年のこと。直ちに準備を始め、西暦1482年にはスペインに残る最後のイスラム王朝の本拠グラナダに軍を進めた。そして10年後の西暦1492年にスペインのレコンキスタ(国土回復運動)を完了させたわけだ。

マキャベリによれば、即位から直ちに大事業を始めて人々の心を惹き付け、大事業の成功と共に統治の基盤を固めてしまったということになる。更にアラゴン王フェルナンド2世は大事業を続ける。

西暦1501年にはスペインにおけるモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)の追放を進めた。西暦1504年にはフランスに打ち勝ってナポリを手に入れた。そんなこんなで次々と大事業を推進し、おかげで臣下たちは反抗することもできなかったらしい。

他方で、その後もスペインで抑圧されたモリスコやイスラム教徒、そしてユダヤ人たちは国外に移住していった。その移住先の一つがフィレンツェだった。特に第3代トスカナ大公フェルディナンド1世は積極的に彼らを受け入れ、それがトスカナ大公国の経済振興に役立ったらしい。

「君主論」を書いて就活しようとしたマキャベリ

メディチ家を追放したフィレンツェを支配したサヴォナローラが処刑された後、フィレンツェの共和政府で書記官として貢献したのがニッコロ・マキャベリだった。でも、やがて共和政府は倒され、メディチ家が復帰し、マキャベリは失業してしまった。

そんなニッコロ・マキャベリが山荘に隠棲しつつ就活の為に書いたのが、君主のあるべき姿を論じた「君主論」だった。西暦1513年にフィレンツェの統治者となったジュリアーノ・デ・メディチ(大ロレンツォの三男にして教皇レオ10世の弟)に献呈し、職を得ようとしたが果たせず。

西暦1516年にはウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォ)に「君主論」を献呈している。でも、やはり職を得ることはできなかった。小ロレンツォはマキャベリから贈られた小難しい本よりも、猟犬に夢中だったなんて話もある。

そんな失意のニッコロ・マキャベリもやがて枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)と面談し、フィレンツェの歴史の本を書く仕事を請けている。しかし、その報酬は乏しく、彼は生活の為に債権取り立ての仕事をしたこともあるらしい。

その後も、ニッコロ・マキャベリの著作活動は続いている。この時期の彼の著作をいくつか挙げれば、「ディスコルシ」「戦争の技術」「マンドラーゴラ」「クリツィア」「大悪魔ベルファゴール」「黄金のろば」などなど。題名が興味深いけど、彼は喜劇・寓話・叙事詩なども著していたそうな。中には、各地で上演された喜劇もあるらしい。

イタリアの古都フィレンツェのサンタ・クローチェ教会にある「君主論」の著者マキャベリのお墓

そんなニッコロ・マキャベリが亡くなったのは西暦1527年6月のこと。皇帝カール5世の軍によるローマ劫略(サッコ・デ・ローマ)の1ヵ月後のことだった。上の画像はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会にある彼のお墓の様子なんだ。

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