ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1519年、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝(カール5世)に選ばれた。


ベルギーで生まれ育ったハプスブルク家のカルロス(カール)

かつてフランス東部ブルゴーニュ地方の支配者だったブルゴーニュ公家といえば、百年戦争の頃にはフランス王家をも凌駕するほどの勢力を持っていたみたい。でも、シャルル突進公が戦死してヴァロワ家系ブルゴーニュ公家は断絶したわけだ。

ところが、そんな中世ブルゴーニュ公家のかなりを継承する男の子が西暦1500年にネーデルラント南部(今のベルギー)で生まれたんだ。その男の子の祖母はマリー・ド・ブルゴーニュ。戦死したブルゴーニュ公シャルル突進公の一人娘だった。男の子は曽祖父の名前を受け継ぎ、シャルルと名づけられた。但し、シャルルという名は、スペイン語ではカルロス、ドイツ語ではカールとされるけどね。

少年の父はフィリップ美公と呼ばれていた。シャルル突進公の父親(つまりはフィリップ美公の曽祖父)であるブルゴーニュ公フィリップ善良公の名前を受け継いだわけだ。そんなフィリップ美公が西暦1506年に亡くなった。息子の少年シャルル(カルロス、カール)は、父からブルゴーニュ公、ブラバント公などの地位を継承したわけだ。

但し、ブルゴーニュ地方はアラス条約に従ってフランス王が支配しており、少年が継承したブルゴーニュ公の地位は名前だけということになる。余談ながら、この少年の子孫に当たる現在のスペイン国王フアン・カルロス1世は、称号だけのことではあっても、ブルゴーニュ公・ブラバント公という地位を継承し続けている。

ベルギーの首都ブリュッセルのグラン・プラスにある王の家

上の画像は今のベルギーの首都ブリュッセルのグラン・プラスにある建物の様子なんだけど、右端の建物は「王の家」と呼ばれている。かつてはブラバント公国の役所が置かれていた為に「公の家」と呼ばれていた。でも、この少年が後にスペイン王となったことから「王の家」に昇格したんだそうな。但し、フランス王ルイ14世太陽王が起こしたアウクスブルク同盟戦争の際に破壊された為に、今の「王の家」は後に建て直されたものらしい。

ちなみに、今のベルギー南部や首都ブリュッセルでは主な言語はフランス語なんだけど、少年が生まれ育った当時も人々はフランス語を話していたらしい。この少年は後にいくつかの言語を勉強するんだけど、最初に覚えた言葉はフランス語だった。ついでながら、少年は何度もパリを訪れたらしいけれども、彼はフランスの首都パリが大好きだったそうな。

スペイン王カルロス1世の誕生

西暦1516年、アラゴン王フェルナンド2世が亡くなった。彼の妻のカスティーリャ女王イサベル1世は既に亡くなっており、カスティーリャ王位は二人の娘のフアナが継承していた。とはいえ、そのカスティーリャ女王フアナは精神面で重い病気を患っていた為に、父のフェルナンド2世がアラゴン王国のみならず、カスティーリャ王国をも取り仕切っていた。

そんなフェルナンド2世が亡くなったということで、継承者はベルギーで生まれたブルゴーニュ家の少年シャルルしかいなかったんだ。ちなみに、下の画像はスペインのカトリック両王、すなわちフェルナンド2世とイサベル1世のお墓なんだ。スペイン南部アンダルシア地方古都グラナダ王室礼拝堂で見ることができる。

スペインのグラナダにある王室礼拝堂で見たカトリック両王のお墓

というわけで、少年シャルルは西暦1516年にスペイン王カルロス1世となったわけだ。その若いスペイン王カルロス1世がベルギーを出てスペインに渡ったのは、西暦1517年のことだった。ちなみに、正確には母の女王フアナとの共同統治あるいは代行であり、そのフアナが亡くなった西暦1555年にカルロス1世は正式にスペイン王となったらしいけどね。

ついでながら、カルロス1世の母である女王フアナも古都グラナダの王室礼拝堂に埋葬されている。更についでながら、この古都グラナダは世界遺産ともなっているアルハンブラ宮殿で有名だけど、カルロス1世はそのアルハンブラ宮殿の一部を取り壊し、自分の新しい宮殿を作ろうとしたんだ。未完成に終わったけどね。

蛇足のおまけなんだけど、スペイン王カルロス1世は、古都コルドバにある中世イスラム教徒のモスク(今はメスキータと呼ばれ、世界遺産になっている)の一部も取り壊し、キリスト教徒の大聖堂を建てている。実はちょこちょこ文化遺産を破壊しちゃったりしていたんだね。

ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世

そして西暦1519年、スペイン王カルロス1世の父方の祖父が亡くなった。その祖父とは、ブルゴーニュ公家の相続人だったマリー・ド・ブルゴーニュと結婚したハプスブルク家のマクシミリアンなんだけど、亡くなった時には神聖ローマ帝国の皇帝となっていたんだ。

というわけで、スペイン王カルロス1世は父方の祖父からハプスブルク家のオーストリア大公などの地位と領地を相続した。更には、神聖ローマ帝国の皇帝選挙でフランス王フランソワ1世などのライバルを打ち負かし、皇帝に選出されている。ベルギーで生まれた少年シャルルが、とうとう神聖ローマ帝国皇帝カール5世となったわけだ。

ところが、当時の皇帝選挙には選挙違反なんてものは無かった。皇帝に選ばれるためには、お金も飛ぶし、軍事力も動く。というわけで、莫大なお金がかかったらしい。そんなお金を工面するために、スペインで増税を行ったらしい。その上で皇帝カール5世は戴冠式に向かったんだ。

余談ながら、その途中でイギリスのロンドンに立ち寄り、叔母のキャサリン・オブ・アラゴンと結婚していたイングランド王ヘンリー8世に会ったらしい。但し、ヘンリー8世は後にキャサリンの侍女だったアン・ブーリン(後の女王エリザベス1世の母)と結婚し、その為にローマの教皇庁と訣別するなどの大騒ぎを起こしているんだけどね。

スペインの古都トレドの風景

他方で皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の足許のスペインでは大変な事態となっていた。まずは、スペインの古都トレドで増税に反対する人々が蜂起したんだ。彼らは増税に反対しただけではなく、スペインの財宝や貴金属が国外に送られることの禁止も要求し、ベルギーなど外国から来た人々ばかりにスペインの重要な役職が与えられることにも反発していた。

蜂起は各地に広がり、トレドのみならず、後に首都となるマドリッド古代ローマ帝国時代の水道橋のあるセゴビアなどを含む多くの街がこのコムネロスの反乱に参加したらしい。留守にしているスペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)に対して、その母にして名目上の女王であるフアナが反乱者側に祀り上げられていた。

王の軍隊に対しても優勢に立っていた反乱者側の施策は次第に過激なものとなっていった。その結果、反乱に同調的だった貴族たちが離反していったらしい。その結果、反乱軍は次第に劣勢に陥り、西暦1521年春にはビリャラールの戦いで大敗を喫している。その年の秋には古都トレドも王の軍に降伏し、スペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)に対するコムネロスの反乱が終息したわけだ。

ちなみに、このコムネロスの反乱が終わった西暦1521年、新大陸においてはコルテスがアステカ帝国を滅亡させている。その後、ピサロがインカ帝国を滅亡させ、やがてはポトシ銀山などが開発され、新大陸から大量の銀がスペインに送られて来ることになるんだけどね。

スペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)の結婚

それから数年の時が流れて西暦1526年、スペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)がセビリアの街で結婚した。相手は従妹にあたるポルトガル王マヌエル1世の王女イサベル(イザベラ)だった。(下の画像はスペイン南部セビリアにあるヒラルダの塔から見下ろした大聖堂の屋根と街並み。)

スペインのセビリアにあるヒラルダの塔から見下ろした大聖堂の屋根と街並み

この結婚で生まれたのが、カルロス1世の継承者スペイン王フェリペ2世であり、その母親がポルトガル王女だったことから後にフェリペ2世がポルトガルの王となることにも繋がるわけだね。ついでながら、後にレパントの海戦の司令官となったドン・フアン・デ・アウストゥリアの母親は別の女性なんだけどね。

ところで、スペイン王カルロス1世あるいは皇帝カール5世の治世はまだ始まったばかり。これから約30年に渡って彼の戦いが続いていくわけだ。フランス王フランソワ1世、オスマン・トルコ、そしてルターなどの宗教改革勢力などとのヨーロッパ各地での戦いだね。

ちなみに、このページではずっと皇帝カール5世と書いたけれども、彼が正式に皇帝としての戴冠を受けたのは、西暦1530年のことだった。イタリアの街道の街ボローニャにある聖ペトロニウス聖堂ローマ教皇クレメンス7世によって戴冠式が行われたんだそうな。(余談ながら、その年に彼はマルタ島を聖ヨハネ騎士団に与えている。)

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