大航海時代最盛期のポルトガル王マヌエル1世の強運大航海時代の最盛期にポルトガルに君臨した王マヌエル1世は、とんでもなく運の強い人物だったみたい。父はポルトガル王ドゥアルテ1世の息子ではあったけれども王位を継承したのは伯父のジョアン2世であり、しかもマヌエル1世には5人もの兄がいた。どう間違っても王位がマヌエル1世に回ってくるとは思えなかったんだ。ところが、西暦1473年に姉が王太子と結婚した。やがて西暦1481年に王太子がポルトガル王ジョアン2世として即位し、姉は王妃となったんだ。他方で、それまでに5人の兄たちのうちの4人が若くして亡くなっていた。最後に残った兄も西暦1484年に反逆罪によって処刑されている。 そして西暦1491年には王の唯一の嫡子が亡くなってしまった。そんなこんなでマヌエル1世が王太子となり、ジョアン2世が亡くなった西暦1495年にポルトガル王マヌエル1世が即位したわけだ。
ポルトガル王マヌエル1世の強運は更に続く。西暦1498年にはヴァスコ・ダ・ガマの艦隊がインドのカリカットに到達した。続いて西暦1500年には、インドに向けて送り出した艦隊がブラジルを発見している。その艦隊の司令官がカブラルだったんだけど、上の画像はユーロ切り替え前のポルトガルの1000エスクード紙幣に描かれているカブラルの船とブラジルの動植物の様子なんだ。
リスボンのジェロニモス修道院とマヌエル1世ヴァスコ・ダ・ガマによって発見されたインド航路を利用した香辛料貿易は、ポルトガルに莫大な利益をもたらした。その利益を資金源としてマヌエル1世が西暦1502年から立て始めたのが、首都リスボンのジェロニモス修道院だった。
そのマヌエル1世が建立したジェロニモス修道院に葬られているのが、ヴァスコ・ダ・ガマ(上の画像は彼のお墓)なんだ。彼が発見したインド航路がポルトガルにもたらした莫大な富を考えれば、それも当然と思えるよね。
ポルトガル王マヌエル1世が残したベレンの塔上に書いたジェロニモス修道院は世界遺産になっているんだけど、そのすぐ近くにあるベレンの塔(下の画像)も同じく世界遺産になっている。しかも、この建物もポルトガル王マヌエル1世が建てたものなんだ。
西暦1519年に完成したこのベレンの塔は、首都リスボンの海からの出入り口となっているテージョ川の河口を監視する要塞なんだそうな。
ポルトガル王マヌエル1世が残したその他いろいろ大航海時代のポルトガルの建築にマヌエル様式を残したマヌエル1世は、その他にもいくつもの建築物に関与している。例えば、初代アヴィス朝ポルトガル王ジョアン1世が建立したバターリャ修道院(勝利の聖母マリア修道院)の工事を継承している。但し、他にジェロニモス修道院の工事も始めちゃったものだから、マヌエル1世の息子のポルトガル王ジョアン3世はバターリャ修道院の工事を一時中断しちゃったけどね。更には、ポルトガル王家とかかわりの深いシントラの王宮(下の画像)の増改築も行ったんだそうな。このマヌエル1世の増改築によって、シントラの王宮にはマヌエル様式の装飾が加わったらしい。
残念ながら、このシントラの王宮の内部は撮影禁止だったんだけど、王宮にはアズレージョのコレクションもある。イベリア半島を征服したイスラム教徒の時代から、スペインやポルトガルでは絵柄タイルを用いたアズレージョが盛んに用いられていたんだ。
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