ローマのスペイン階段の上にトリニタ・ディ・モンティ教会映画「ローマの休日」を観たことのある人も無い人も、イタリアの首都ローマを訪れたならば、スペイン広場からスペイン階段を登るかもしれないね。そのスペイン階段の途中から見上げた眺めが下の画像なんだ。
階段の上、オベリスクの向こうに見えているのは、トリニタ・ディ・モンティ教会。フランス王ルイ12世の命によって西暦1502年に建設が始まった教会なんだ。でも、何故にイタリアのローマにフランスの王様が ・・・ それがこのページのポイントだったりするわけだ。
フランスのブロワ城で生まれたルイ12世百年戦争の最中の西暦1415年、イングランド王ヘンリー5世は名高いアジャンクールの戦いでフランス軍を撃ち破り、多くの貴族を捕虜にした。その中の一人がフランス王家の分家の出身のオルレアン公シャルルだった。オルレアン公はイングランドで長く捕われの生活を過ごしている。その後のフランスはジャンヌ・ダルクなどの活躍もあって退勢を挽回していった。加えて、イングランドに身代金を支払った結果、捕われのオルレアン公シャルルは帰国することが出来た。そして百年戦争の戦火も収まった後の西暦1462年、ブロワ城に隠棲していたオルレアン公シャルルに男の子が誕生した。それが後のフランス王ルイ12世だった。
上の画像はそのブロワ城なんだ。パリから参加したロワール川古城めぐりのバス・ツアーで訪れた際に撮影したもの。画像の中にはフランス王ルイ12世の騎馬像も見えているね。西暦1465年に父を亡くしたルイ12世は、このブロワ城やオルレアン公の地位を継承している。
フランス王ルイ12世のイタリア戦争西暦1498年、フランス王シャルル8世が亡くなった。シャルル8世には息子がいなかったこともあり、ヴァロワ王家の分家の出身のオルレアン公がフランス王ルイ12世として即位した。シャルル8世はルイ12世の姉と結婚しており、ルイ12世は義理の兄にもなるらしい。既にイングランドとの百年戦争が終わっていたこともあり、ルネ・ダンジューからナポリ王位(シャルル・ダンジューからの歴史もある)を継承したと主張していた当時のフランス王家はイタリアに野望を向けていた。先王シャルル8世と同様にルイ12世もイタリアに攻め込んだんだ。 西暦1500年にはイタリア北部の中心都市ミラノを攻略し、ローマ教皇アレクサンデル6世やその息子のチェーザレ・ボルジアとの協力の下、更に南下して西暦1501年にはナポリの王位をも得ている。(下の画像はナポリのサンタ・ルチアにあるヌオヴォ城。13世紀にアンジュー家によって築かれたものだった。)
そんなわけでイタリアを席巻する勢いのフランス王ルイ12世の命により、西暦1502年に建設が始まったのが、ローマのスペイン階段の上のトリニタ・ディ・モンティ教会だったというわけだ。
再びローマのスペイン階段以上がこのページのお話なんだけど、ちょいとだけローマのスペイン階段に戻ろう。下の画像はトリニタ・ディ・モンティ教会の下、スペイン階段の途中から下のスペイン広場を眺めた様子なんだ。
今のスペイン階段のある場所は、かつては崖だったそうな。西暦1723年に上のトリニタ・ディ・モンティ教会との行き来を可能とする為に階段が作られたんだそうな。
ところで、西暦2014年春の報道によれば、西暦2015年から翌年にかけてスペイン階段の修復作業が行われるんだそうな。その作業中も観光客に公開されるらしいけどね。ちなみに、その修復工事の費用のうち約2億円を寄付したのがあの高級ブランドの「ブルガリ」。創業130年の記念としての寄付だったとか。
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