ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1503年、チェーザレ・ボルジアがサン・マリノ共和国を屈服させた。(イタリア)


枢機卿となったチェーザレ・ボルジア

イタリアの覇者を目指したチェーザレ・ボルジアは、西暦1475年にイタリアの首都ローマで生まれた。そして西暦1492年、父のロドリーゴ・ボルジアがローマ教皇アレクサンデル6世として即位した。

その年、17歳のチェーザレ・ボルジアはボルジア家の出身地であるヴァレンシアの大司教となっている。更に翌年には枢機卿に任じられている。(下の画像はヴァレンシアにある中世の商品取引所 ラ・ロンハの内部の様子。15世紀のヴァレンシアは地中海を代表する商都だった。ちなみに、この商品取引所は世界遺産になっている。)

スペインのヴァレンシアにある中世の商品取引所 ラ・ロンハ の内部

ところが、西暦1494年には大軍を率いるフランス王シャルル8世がイタリアに侵入し、ローマを経てナポリを占領している。その巨大な軍事力にローマ教皇も抵抗することが出来ず、息子のチェーザレ・ボルジアをナポリへの進軍に同行させざるを得なかったらしい。

フランス軍の支援を得たチェーザレ・ボルジア

ところが、やがてイタリアで敗北を喫してフランスに逃げ戻ったシャルル8世が西暦1498年に亡くなり、ルイ12世がフランス王となった。その同じ年、チェーザレ・ボルジアは枢機卿などの地位を捨て、僧籍を離れて俗人に戻っている。

俗人となったチェーザレ・ボルジアはフランス南部プロヴァンス地方の街マルセイユに上陸し、更にリヨンなどのフランス各地を訪問している。そのフランスでルイ12世の支援を得たチェーザレ・ボルジアはフランスの公爵に叙され、フランス軍と共にミラノに入っている。(下の画像はフランスのブロワ城にあるルイ12世の騎馬像。)

ブロワ城にあるフランス王ルイ12世の騎馬像

イタリアに戻ったチェーザレ・ボルジアは、イタリアなどから集めた傭兵に加え、フランス王ルイ12世から提供された部隊を率いて、西暦1499年に軍事活動を開始した。まずはカテリーナ・スフォルツァの領地イーモラとフォルリを征服。捕えられたカテリーナ・スフォルツァはヴァティカンにあるサンタンジェロ城に幽閉されたらしい。他方のチェーザレ・ボルジアは教皇庁の総司令官に任じられている。

サン・マリノ共和国を屈服させたチェーザレ・ボルジア

西暦1501年にはチェーザレ・ボルジアはフィレンツェに向かった。しかし、フランス王ルイ12世やローマ教皇などの仲介もあり、フィレンツェの申し出た和平に応じている。更に西暦1502年にはピサなどを屈服させている。

サン・マリノ共和国の第二の砦 ケスタの塔から眺めた第一の砦 グアイタの塔(イタリア)

イタリアの覇王を目指す勢いのチェーザレ・ボルジアは、西暦1503年にはサン・マリノ共和国を屈服させている。(上の画像はチタン山の上にあるサン・マリノ共和国の第一の砦 グアイタの塔第二の砦 ケスタの塔から眺めた様子。)

チェーザレ・ボルジアの没落、そして戦死

勢力を更に強めつつあったチェーザレ・ボルジア。ところが、彼の軍に参加していた傭兵隊長たちが反乱(マジョーネの乱)を起こしたんだ。更にはベンティヴォーリオ家の支配下にあるボローニャも反乱軍に呼応して進軍を始めた。(下の画像はイタリアの街道の街ボローニャマッジョーレ広場。)

イタリアの街道の街ボローニャのマッジョーレ広場

危機に陥るかと見えたチェーザレ・ボルジアだった。でも、最大の後ろ盾であるフランス王ルイ12世は反乱軍を支持しなかった。他方で反乱軍の切り崩しに成功したチェーザレ・ボルジアは、事態を収拾することができたんだ。(この頃、フィレンツェ政庁の書記官だったマキャベリは外交官としてチェーザレと会っている。彼は後に「君主論」においてチェーザレについて書いているんだ。)

ところが、西暦1503年の夏、父であるローマ教皇アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアが病に倒れてしまった。マラリアとの説もある。やがてローマ教皇は死去。その後継者ピオ3世も1ヶ月で亡くなった。次の教皇となったユリウス2世(西暦1506年にはサン・ピエトロ大聖堂の建設を始める人物)とチェーザレ・ボルジアは密約を交わしていたらしい。

西暦1504年、チェーザレ・ボルジアはスペイン支配下のナポリへと向かった。ところが、教皇ユリウス2世と密約を結んでいたスペインはナポリでチェーザレ・ボルジアを捕えてスペインへ送り、そこで幽閉したんだ。

西暦1506年、幽閉を脱出したチェーザレ・ボルジアは妻シャルロット・ダルブレの兄フアン3世が支配するナヴァラ王国へと逃れた。その翌年、スペインと戦うナヴァラ王国軍に加わったチェーザレ・ボルジアが戦死した。31歳の若さだった。

ちなみに、チェーザレ・ボルジアとナヴァラ王国の王女シャルロット・ダルブレ(二人は西暦1499年に結婚している)との間に生まれた娘ルイーズは、やがてフランスのブルボン家の分家にあたるビュッセ男爵家(後に伯爵家)に嫁ぎ、その子孫は今に至るまで続いているらしい。

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