ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1512年、イタリアの古都フィレンツェにメディチ家が復帰し、ニッコロ・マキャベリが失業。


フィレンツェの書記官マキャベリ

西暦1498年02月、イタリアの古都フィレンツェにおいて青年ニッコロ・マキャベリが政庁の書記官の職に応募した。しかし、その職はサヴォナローラ派の人物に与えられている。フランス王シャルル8世のイタリア侵入(西暦1494年)の際にメディチ家が追放されたフィレンツェは、修道士サヴォナローラの統治下にあったんだ。

翌月、メディチ派の人物の依頼を受け、青年マキャベリはサン・マルコ修道院に赴いた。フィレンツェの統治者サヴォナローラの説教を聞くためだった。サヴォナローラが修道院長となっていたサン・マルコ修道院は、彼を支持する人々の本拠となっていた。その説教を聴いたマキャベリは、サヴォナローラの偽善性と独善性を感じ取り、その統治の長くないことを予感したとも伝えられている。

イタリアの古都フィレンツェのサン・マルコ美術館(昔の修道院)の中庭の回廊

上の画像はそのサン・マルコ修道院の中庭の回廊の様子。といっても、今は修道院ではなく、サン・マルコ美術館となっている。修道士にして宗教画家フラ・アンジェリコの作品を見ることができ、フィレンツェの人気のスポットの一つになっているね。

マキャベリがサヴォナローラの説教を聴いてから2ヶ月あまりが経った頃、フィレンツェの人々がサン・マルコ修道院を取り囲んだ。捕われたサヴォナローラはやがてシニョーリア広場で処刑されてしまった。その数日後、青年マキャベリが政庁の書記官として推薦され、翌月には正式に書記官の職を与えられたそうな。

ちなみに、ニッコロ・マキャベリは西暦1469年にフィレンツェで生まれている。父親は法律家にして人文主義者だった。フィレンツェの元首を出したこともあるトスカナ地方の由緒ある貴族の分家の家系に属し、資産は乏しいけれども、古代ギリシャ・ローマの古典やダンテなどの多くの本のある家庭で育ったらしい。

フィレンツェの外交官マキャベリ

やがてマキャベリはフィレンツェ政庁の第2書記局の責任者に任じられている。そんな彼がフィレンツェの外交使節としての初仕事としてピオンビーノに派遣されたのが西暦1499年の春のことだった。

その年の夏、マキャベリはフォルリとイーモラの領主であるかテリーナ・スフォルツァとその息子のジョヴァンニ・デ・メディチと傭兵契約について交渉する為に派遣されている。

イタリアの古都フィレンツェのウフィツィ美術館にある黒備えのジョヴァンニ(ジョヴァンニ・デ・メディチ)の肖像画

その交渉の相手の一人ジョヴァンニ・デ・メディチは、フィレンツェの名家であるメディチ家の傍流の出身なんだけど、黒備えのジョヴァンニ(ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ)として名高い傭兵隊長だった。上の画像はウフィツィ美術館にある彼の肖像画なんだ。

ちなみに、後のことになるんだけど、黒備えのジョヴァンニの息子のコシモ・デ・メディチは、嫡流男系の途絶えたメディチ家の当主となり、フィレンツェ大公コシモ1世(後にはトスカナ大公)としてフィレンツェ更にトスカナ地方の支配者となっている。

話を戻してフィレンツェの外交官としてマキャベリなんだけど、その後も彼はその他にも様々な相手との交渉の為にあちこちに派遣されている。フランス王ルイ12世との交渉の為にリヨンを訪れ、チェーザレ・ボルジアとの交渉の為にウルビーノに赴き、ピサの使節との交渉の為にピオンビーノに向かい、・・・などなど。

フィレンツェ市民軍を組織したマキャベリ

中世から近代にかけてのイタリアの都市国家の多くがそうだったけれども、当時のフィレンツェも自前の軍を持たず、必要に応じて傭兵隊長を雇い、その部隊を以て戦いを行わせていた。(ジョン・ホークウッドやニッコロ・ダ・トレンティーノなどの傭兵隊長が名を残している。)

でも、チェーザレ・ボルジアやフランス王ルイ12世などイタリアを混乱に陥れていた人々との交渉を経験し、自前の軍事力を持たないフィレンツェの脆弱さを痛感していたマキャベリは、西暦1503年に自国軍創設を政庁に訴えたらしい。

イタリアのピサの斜塔とドゥオモ(大聖堂)

そんなマキャベリを支援したのが正義の旗手(元首)となっていたピエロ・ソデリーニだった。元首の支援を得たマキャベリは、西暦1506年に新兵の募集を始め、その年の年末にはフィレンツェ市民軍が正式に発足したらしい。その新しい軍が活躍した結果、西暦1509年にはピサの攻略に成功している。(上の画像はピサの斜塔大聖堂の様子。)

メディチ家の復帰とマキャベリの失業

そんなこんなでマキャベリは外交や軍事においてフィレンツェの共和政府の為に貢献したわけだ。ところが、追放されていたメディチ家は復帰を諦めていなかったことに加え、イタリアと周辺諸国の動きも波乱要因となりつつあったんだ。

西暦1511年、メディチ家の出身の枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチ(後の教皇レオ10世)がフィレンツェに残るメディチ派の人々をけしかけ、共和政府に反対する動きを始めさせた。共和政府の下で顕職に就くことができない貴族層の不満をあおりたてたらしい。

同年秋、ローマ教皇庁はヴェネツィア、神聖ローマ帝国、スペインなどと神聖同盟を結成し、フランスとの対立を激化させた。翌年にはマントヴァで開催された神聖同盟の会議において、フランス側に立つフィレンツェの共和政府の転覆とメディチ家の復活が検討されている。

そして西暦1512年8月、フィレンツェに迫る神聖同盟軍が和平を提案した。共和政府の元首であるピエロ・ソデリーニの辞職とメディチ家の帰国を条件としていた。しかし、提案は拒否された。間もなく、スペイン軍や教皇庁の軍を中核とする神聖同盟軍に対してフィレンツェ市民軍が敗北。和平の提案を拒否したピエロ・ソデリーニが解任されるに至った。

同年9月、市民の支持を得たメディチ家が復帰し、枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチの弟のジュリアーノ・デ・メディチがフィレンツェの統治者となった。いくつもの役職を兼務するに至っていたマキャベリが全ての役職を失ったのは、メディチ家復帰の2ヵ月後のことだった。

イタリアの古都フィレンツェにあるバルジェッロ博物館の中庭の回廊

年が明けて西暦1513年2月、復帰したメディチ家に反対する陰謀に加担した疑いで失業中のマキャベリが逮捕され、バルジェッロ宮殿に収監され、厳しい拷問にかけられた。(上の画像はかつてのバルジェッロ宮殿の中庭の回廊の様子なんだけど、いまはバルジェッロ博物館となり、ミケランジェロドナテッロの作品などが展示されている。)

フィレンツェの共和政権において外交や軍事に貢献したマキャベリだけに、復帰したメディチ家にとっては目障りな存在だよね。しかも、反メディチ家陰謀に加担した疑いを持たれては、マキャベリも万事休す・・・。

ところが、逮捕された翌月のことなんだけど、ローマにおいて枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチが教皇レオ10世として即位した。それに伴う大恩赦によって、マキャベリは釈放されたわけだ。

自由を回復したマキャベリではあるけれども、失業の身には変わりない。フィレンツェ近郊の山荘に隠棲し、取り組んだのが名高い「君主論」だった。それをメディチ家に送り、なんとか職を得ようという就活の一環として、後世に名を残す代表作を著したわけだね。

でもね、そんな著名な作品をもってしても、結果的には就活はうまくいかなかったらしいよ。詳しくはまたページをあらためて書くつもりなんだけど。

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