ローマのヴァティカン宮殿でフレスコ画の制作を始めたラファエロ西暦1508年、ルネサンス期イタリアを代表する画家ラファエロがローマにやってきた。サン・ピエトロ大聖堂の建築家となっていたブラマンテの推挙により、ローマ教皇ユリウス2世が彼を招聘したんだ。
ローマにやって来たラファエロは、教皇の求めに応じ、ヴァティカン宮殿でフレスコ画の制作を始めた。例えば上の画像にある「アテネの学堂」などは、その時期のラファエロがローマに残したフレスコ画の最高傑作の一つとも言われているらしいよ。(ヴァティカン美術館・博物館の署名の間で見ることが出来る。)
ラファエロ、ウルビーノからフィレンツェを経てローマラファエロは西暦1483年にウルビーノで生まれている。ウルビーノ公の宮廷画家を父に持つラファエロは、子供の頃から絵画の才能を示していたらしい。でも、彼が8歳の時に母を亡くし、11歳の時には父をも失い、伯父の支援を得て画家としての修行したらしい。やがて18歳の時に絵画の親方になっている。その後のラファエロはイタリア各地を訪れていたそうな。でも、特にフィレンツェで過ごすことが多かったらしい。その頃のフィレンツェにはレオナルド・ダ・ヴィンチ(ミラノに残した「最後の晩餐」で名高い)がいたんだけど、この時期のラファエロは彼の影響を受けたとか。
そして西暦1508年に教皇の招聘を受け、ラファエロはローマに来てヴァティカン宮殿で仕事を始めたというわけだ。(上の画像はヴァティカン美術館・博物館の署名の間にあるフレスコ画「聖体の論議」。)
メディチ家出身のローマ教皇レオ10世とラファエロラファエロをローマに呼んでヴァティカン宮殿でフレスコ画の制作を依頼した教皇ユリウス2世は西暦1513年に亡くなっている。でも、フィレンツェのメディチ家出身の次の教皇レオ10世もラファエロに制作を続けることを望んだんだ。(署名の間と同様にラファエロのフレスコ画の多いヘリオドロスの間に残る教皇レオ10世の紋章が下の画像。)
そんなこんなでローマでフレスコ画を描き始めたラファエロは、亡くなるまでローマで制作を続けたんだ。とはいえ、その期間中にも彼はヴァティカン宮殿以外にも作品を残している。例えば、メディチ家ゆかりのフィレンツェのパラティナ美術館では、ラファエロの「小椅子の聖母」などを見ることが出来るんだ。
ヴァティカンに残るラファエロ工房のフレスコ画ウルビーノの宮廷画家だったラファエロの父親も自分の工房を持っていた。そしてラファエロも多くの弟子や徒弟が働く自分の工房を率いて制作していたそうな。つまり、構想・下絵から仕上げまでの全てを彼が行ったというわけではなく、かなりの作業が工房のスタッフによって行われていた。
そんなわけで、西暦1520年にラファエロが37歳で亡くなった後も、彼の工房による制作は続けられたんだ。例えば、上の画像にあるフレスコ画「ボルゴの火災」も彼の工房のスタッフによって制作されたものらしい。ちなみに、このフレスコ画はヴァティカンの火災の間にあるんだけど、この部屋の名前は上のフレスコ画から来ているんだそうな。
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