傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの肖像画イタリアの古都フィレンツェにあるウフィツィ美術館を訪れた。イタリア・ルネサンスの画家ボッティチェッリの作品や名門メディチ家ゆかりの絵画を見て歩いたんだ。ところが、広いウフィツィ美術館の部屋の一つで偶然に見かけたのが下の画像の絵画だった。
ジャン・パオロ・パーチェという聞いたこともない画家が描いた肖像画なんだけど、描かれているのはジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(あるいは黒備えのジョヴァンニ)。ルネサンス末期のイタリアを代表する傭兵隊長だったそうな。
傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの両親ここでもう一つ絵画を見ておきたい。イタリア・ルネサンスを代表する画家ボッティチェッリの名画「春(プリマヴェーラ)」(下の画像は部分)だね。この名画の中には傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの母が描かれているらしい。
上の画像の中央やや右に描かれているのはヴィーナスなんだけど、その左には三美神がいるよね。その三美神の右側(ヴィーナスのすぐ左)の女性のモデルがカテリーナ・スフォルツァ、即ち傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの母だったそうな。
フィレンツェ、そしてローマで育った傭兵隊長ジョヴァンニイル・ベッロが亡くなった翌年の西暦1499年、ローマ教皇アレクサンデル6世を父に持つ野心的なチェーザレ・ボルジアが軍を率いてフォルリに向かってきた。伯爵未亡人カテリーナ・スフォルツァは防備をかためる一方で子供たちをフィレンツェに疎開させたらしい。フォルリに籠城する伯爵未亡人カテリーナ・スフォルツァ。しかし、翌年1月には城砦は陥落し、彼女は捕われの身となってしまった。彼女はローマに連れて行かれ、ヴァティカンの入口にあるサンタンジェロ城の中に幽閉されたそうな。(下の画像はそのサンタンジェロ城の屋上から眺めたヴァティカン宮殿やサン・ピエトロ大聖堂の様子。)
年が明けて西暦1501年、ローマに幽閉されていた彼女を救い出したのは、イタリアに侵攻したフランス王ルイ12世の将軍だった。解放されたカテリーナ・スフォルツァが向かったのは、子供たちが待つフィレンツェだった。
フィレンツェ大公となった傭兵隊長ジョヴァンニの息子その後も傭兵隊長ジョヴァンニは戦火に身をさらしている。西暦1524年には皇帝カール5世の軍と共にフランス軍を撃破。しかし、翌年にはメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世の命によってフランス軍の戦列に加わり、皇帝カール5世の軍と戦っている。そして西暦1526年、イタリアに侵攻してきた神聖ローマ帝国軍と戦った傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレは砲撃によって重傷を負い、治療の甲斐もなく亡くなってしまった。28歳だった。 その後、メディチ家嫡流が断絶。メディチ家傍流の出身の傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの忘れ形見がフィレンツェ大公コシモ1世となった。亡父である傭兵隊長ジョヴァンニの軍事的な名声が傍流出身のコシモ1世の大公位継承に大きく影響したそうな。
ちなみに、フィレンツェ大公コシモ1世(西暦1519年生まれ)の母であるマリア・サルヴィアティは、ローマ教皇レオ10世の妹ルクレツィアの娘だったそうな。(上の画像はフィレンツェのヴェッキオ宮殿の脇にあるシニョーリア広場に立つコシモ1世の騎馬像。)
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