ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1523年、フィレンツェのメディチ家出身のジュリオ・デ・メディチがローマ教皇クレメンス7世となった。(イタリア)


フィレンツェに生まれたジュリオ・デ・メディチ

後にローマ教皇クレメンス7世となるジュリオ・デ・メディチは、メディチ家の一員として西暦1478年にイタリアの古都フィレンツェで生まれている。でも、その1ヶ月前に彼の父ジュリアーノ・デ・メディチは亡くなっていた。

フィレンツェのドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)の祭壇周辺(イタリア)

フィレンツェにおける実質的な支配者となったメディチ家に対する反発から生じたパッツィ家の陰謀によって、彼の父は殺害されてしまったんだ。その現場となったのが、上の画像にあるフィレンツェのドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)の内部だった。

陰謀を企んだ人々の真の狙いは、彼の父の兄にして当時のメディチ家の当主だったロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニフィコあるいは大ロレンツォ)だった。でも、大ロレンツォは傷を受けたものの助かり、翌月に生まれたジュリオは伯父にあたる大ロレンツォによって育てられている。

ローマ教皇クレメンス7世となったジュリオ・デ・メディチ

西暦1494年、ナポリを狙うフランス王シャルル8世のイタリア侵入の余波を受け、メディチ家はフィレンツェから追放されてしまった。ジュリオ・デ・メディチは大ロレンツォの次男(つまりジュリオの従兄)にして既に枢機卿となっていたジョヴァンニ・デ・メディチと共にドイツ、オランダ、フランスなどを転々としていたらしい。

やがてローマ教皇アレクサンデル6世に迎えられ、西暦1500年に二人はローマに落ち着いた。西暦1512年にはローマ教皇ユリウス2世の力を借り、フィレンツェにメディチ家を復帰させることに成功した。

ラファエロが描いたローマ教皇レオ10世(中)と枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(左)(イタリアの古都フィレンツェのウフィツィ美術館にある)

続く西暦1513年にはジョヴァンニ・デ・メディチはローマ教皇レオ10世として即位している。その半年後には、ジュリオ・デ・メディチも枢機卿となったんだ。ちなみに、上の画像はラファエロが描いた肖像画なんだけど、中央が教皇レオ10世、左側が枢機卿ジュリオ・デ・メディチなんだそうな。(フィレンツェのウフィツィ美術館にある。)

それから8年後の西暦1521年に頼りになる従兄の教皇レオ10世が亡くなり、教皇ハドリアヌス6世が選出された。でも、新教皇は1年後に亡くなってしまった。そして西暦1523年、枢機卿ジュリオ・デ・メディチがとうとうローマ教皇クレメンス7世として即位したというわけだ。

フランス王フランソワ1世と組んだ教皇クレメンス7世

その頃のヨーロッパでは、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)フランス王フランソワ1世が激しい争いを続けていた。しかも、どちらもイタリアに勢力を拡大させようとしていた。

ローマ教皇としては、二人のどちらと組むかが思案のしどころだよね。負ける側に立って共倒れは避けたいし、かといって勝つ側に立ってそちらを勝たせ過ぎてはイタリアまでも食われてしまう。難しいところだよね。

フランスのロワール川のほとりにあるシュノンソー城(フランス王フランソワ1世が狩猟の為の館として使った

迷いに迷ったローマ教皇クレメンス7世なんだけど、側近のグイッチャルディーニの助言もあり、フランス側に立ったわけだ。(上の画像はフランス王フランソワ1世が狩猟の為に使っていたシュノンソー城。フランスのロワール川のほとりにある。)

ところが、この判断は完全に裏目に出てしまった。怒った皇帝カール5世は軍をローマに進めた。その結果として起こったのが、西暦1527年のローマ劫略(サッコ・ディ・ローマ)だった。教皇クレメンス7世は手も足も出ず、サンタンジェロ城に逃げ込んで、そこから半年以上も出ることができなかったらんだそうな。

皇帝カール5世の戴冠を行った教皇クレメンス7世

ローマ劫略の際に教皇クレメンス7世がサンタンジェロ城に身を潜めていた間に、フィレンツェにおいては反メディチ派と共和派の市民が立ち上がり、またもやメディチ家は追放されてしまった。

万事休す ・・・ かと思いきや、ローマ教皇クレメンス7世は今度は皇帝カール5世に擦り寄っていった。そして西暦1530年、皇帝カール5世の軍によってフィレンツェが攻略された。1年近い攻囲の末のことだった。

そんなフィレンツェの統治者とされたのはアレッサンドロ・デ・メディチ。既に亡くなった小ロレンツォ(ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ)の庶子とされている。でも、本当は教皇クレメンス7世の庶子と考えられている。

他方の皇帝カール5世なんだけど、善意で軍を動かし、フィレンツェを攻略したわけじゃない。彼が期待したのは、教皇クレメンス7世による皇帝としての戴冠だった。西暦1519年に皇帝となったカール5世なんだけど、まだ戴冠式は行われていなかった。

イタリアの街道の街ボローニャの聖ペトロニウス聖堂

フィレンツェにメディチ家が復帰して数ヵ月後、カール5世の念願の戴冠式が教皇クレメンス7世によってボローニャで行われたんだ。(上の画像は戴冠式が行われたボローニャの聖ペトロニウス聖堂。未完成の建物なんだけどね。)

その2年後、フィレンツェの統治者となっていたアレッサンドロ・デ・メディチは、皇帝カール5世によって初代フィレンツェ大公に叙せられた。フィレンツェ大公アレッサンドロは西暦1536年に皇帝カール5世の皇女マルゲリータと結婚しているんだ。

ローマ教皇クレメンス7世は西暦1534年に亡くなっている。アレッサンドロの皇女との結婚は見ることはできなかったわけだね。そして西暦1537年、フィレンツェ大公アレッサンドロ・デ・メディチが暗殺された。第2代フィレンツェ大公にしてメディチ家の当主となったのは、傍流出身のコシモ1世だった。

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