フィレンツェに生まれたジュリオ・デ・メディチ後にローマ教皇クレメンス7世となるジュリオ・デ・メディチは、メディチ家の一員として西暦1478年にイタリアの古都フィレンツェで生まれている。でも、その1ヶ月前に彼の父ジュリアーノ・デ・メディチは亡くなっていた。
フィレンツェにおける実質的な支配者となったメディチ家に対する反発から生じたパッツィ家の陰謀によって、彼の父は殺害されてしまったんだ。その現場となったのが、上の画像にあるフィレンツェのドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)の内部だった。
ローマ教皇クレメンス7世となったジュリオ・デ・メディチ西暦1494年、ナポリを狙うフランス王シャルル8世のイタリア侵入の余波を受け、メディチ家はフィレンツェから追放されてしまった。ジュリオ・デ・メディチは大ロレンツォの次男(つまりジュリオの従兄)にして既に枢機卿となっていたジョヴァンニ・デ・メディチと共にドイツ、オランダ、フランスなどを転々としていたらしい。やがてローマ教皇アレクサンデル6世に迎えられ、西暦1500年に二人はローマに落ち着いた。西暦1512年にはローマ教皇ユリウス2世の力を借り、フィレンツェにメディチ家を復帰させることに成功した。
続く西暦1513年にはジョヴァンニ・デ・メディチはローマ教皇レオ10世として即位している。その半年後には、ジュリオ・デ・メディチも枢機卿となったんだ。ちなみに、上の画像はラファエロが描いた肖像画なんだけど、中央が教皇レオ10世、左側が枢機卿ジュリオ・デ・メディチなんだそうな。(フィレンツェのウフィツィ美術館にある。)
フランス王フランソワ1世と組んだ教皇クレメンス7世その頃のヨーロッパでは、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)とフランス王フランソワ1世が激しい争いを続けていた。しかも、どちらもイタリアに勢力を拡大させようとしていた。ローマ教皇としては、二人のどちらと組むかが思案のしどころだよね。負ける側に立って共倒れは避けたいし、かといって勝つ側に立ってそちらを勝たせ過ぎてはイタリアまでも食われてしまう。難しいところだよね。
迷いに迷ったローマ教皇クレメンス7世なんだけど、側近のグイッチャルディーニの助言もあり、フランス側に立ったわけだ。(上の画像はフランス王フランソワ1世が狩猟の為に使っていたシュノンソー城。フランスのロワール川のほとりにある。)
皇帝カール5世の戴冠を行った教皇クレメンス7世ローマ劫略の際に教皇クレメンス7世がサンタンジェロ城に身を潜めていた間に、フィレンツェにおいては反メディチ派と共和派の市民が立ち上がり、またもやメディチ家は追放されてしまった。万事休す ・・・ かと思いきや、ローマ教皇クレメンス7世は今度は皇帝カール5世に擦り寄っていった。そして西暦1530年、皇帝カール5世の軍によってフィレンツェが攻略された。1年近い攻囲の末のことだった。 そんなフィレンツェの統治者とされたのはアレッサンドロ・デ・メディチ。既に亡くなった小ロレンツォ(ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ)の庶子とされている。でも、本当は教皇クレメンス7世の庶子と考えられている。 他方の皇帝カール5世なんだけど、善意で軍を動かし、フィレンツェを攻略したわけじゃない。彼が期待したのは、教皇クレメンス7世による皇帝としての戴冠だった。西暦1519年に皇帝となったカール5世なんだけど、まだ戴冠式は行われていなかった。
フィレンツェにメディチ家が復帰して数ヵ月後、カール5世の念願の戴冠式が教皇クレメンス7世によってボローニャで行われたんだ。(上の画像は戴冠式が行われたボローニャの聖ペトロニウス聖堂。未完成の建物なんだけどね。)
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