近代歴史学の父 グイッチャルディーニ古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは紀元前5世紀に「歴史」を著したとされる。歴史学は長い歴史を持っているわけだ。歴史学の歴史を意味する「史学史(しがくし)」なんて言葉もあるくらいだからね。そんな古代からの長い歴史を持つ歴史学なんだけど、近代歴史学の父とされるのがイタリア人 フランチェスコ・グイッチャルディーニだった。彼の代表作が、西暦1561年に出版された「イタリア史」なんだそうな。
西暦1483年にフィレンツェで生まれたグイッチャルディーニは、メディチ家を支える政治家でもあったそうな。(上の画像は、メディチ家ゆかりのピッティ宮殿の奥にあるボボリ庭園から眺めたフィレンツェの風景。)
外交官となったグイッチャルディーニイタリアでも経済的に繁栄していたフィレンツェの裕福な家に生まれたグイッチャルディーニは、フェラーラとパドゥアの大学で法律を学んでいる。やがて彼は郷里のフィレンツェに戻り、法律を教える職に就いたそうな。そして西暦1512年、グイッチャルディーニはフィレンツェ政府の外交官としてアラゴン王フェルナンド2世の宮廷に派遣された。これが彼の外交官・政治家としての最初の一歩だった。
ついでながら、上の画像はアラゴン王フェルナンド2世とその妻であるカスティーリャ女王イサベル1世の墓。二人がイスラム教徒から奪還したスペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダ(アルハンブラ宮殿がある街)の王室礼拝堂にある。
メディチ家のローマ教皇レオ10世に仕えたグイッチャルディーニスペインに2年ほど滞在した後、グイッチャルディーニはイタリアに戻り、フィレンツェ政府の下で働いていた。そして西暦1515年、彼はメディチ家のローマ教皇レオ10世に仕え、ローマ教皇庁で働き始めた。彼の実家は以前からフィレンツェの名門であるメディチ家を支持していたんだそうな。
上の画像はローマのヴァティカン美術館・博物館の中のヘリオドロスの間に見る教皇レオ10世の名とメディチ家の紋章。(ちなみに、この部屋はラファエロの作品でも名高いね。) 晩年のグイッチャルディーニと「イタリア史」その後もイタリアの情勢は複雑な推移を見せている。ローマ劫略と同じ西暦1527年にメディチ家はフィレンツェから追放されてしまったんだけど、メディチ家と近い関係にあると見られていたグイッチャルディーニはフィレンツェに対する反逆の罪を問われ、財産も没収されてしまったそうな。ところが、その頃のイタリアの政治は奇々怪々だった。教皇クレメンス7世は敵対していたハプスブルク家の皇帝カール5世と結びつき、神聖ローマ帝国軍の力を借りてメディチ家を追放したフィレンツェを征服している。グイッチャルディーニはメディチ家に反発するフィレンツェ市民を抑圧する役割を果たしたんだけど、彼の措置を残酷・残忍だったするコメントも残されているんだそうな。 西暦1531年にはグイッチャルディーニは、教皇領に属するロマーニャ州の街ボローニャの統治を委ねられた。(下の画像は今もボローニャに残るアシネッリの塔。ボローニャの斜塔とも呼ばれている。)
ローマ教皇クレメンス7世の死後、グイッチャルディーニは西暦1534年にフィレンツェに戻り、メディチ家のフィレンツェ大公アレッサンドロに仕えている。それから3年後、アレッサンドロ大公が暗殺されてしまった。直系の後継者はいなかった。
ついでながら、このグイッチャルディーニは「君主論」で名高いマキャベリと親しかったらしい。二人が互いに送った手紙が多く残っているとか。
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