ローマに咲いたイタリア・ルネサンスの花を襲った嵐フィレンツェやシエナなどイタリアのあちこちにルネサンスの花が咲いたわけだけど、一段と華やかだったのが教皇のお膝下のローマだった。特にヴァティカン宮殿やサン・ピエトロ大聖堂には、ラファエロやミケランジェロの名高い作品も残されているよね。(下の画像はホテルから眺めたヴァティカン宮殿やサン・ピエトロ大聖堂。)
でも、そんなローマに咲いたイタリア・ルネサンスの花を猛烈な嵐が襲ったことがあったんだ。西暦1527年のことだった。
イタリアで激突した神聖ローマ帝国とフランス王国の野望ナポリの王位を主張していたルネ・ダンジューの権利を継承したというフランス王家は、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世などがイタリアに侵入を繰り返していた。でも、ルイ12世のナポリ王位を奪ったアラゴン王フェルナンド2世の孫にあたるハプスブルク家の皇帝カール5世にとってもイタリアは譲ることの出来ない土地だった。他方で、小国に分裂していたイタリアの諸侯にとっては、神聖ローマ帝国の皇帝とフランス王との間でいかに上手く立ち回るかは死活的な問題だった。特にいずれにもイタリアの支配を渡したくないローマ教皇にとっては、極めて難しく、しかし避けることのできない問題だった。 西暦1523年に即位したメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世は、迷った挙句にフランス王と組んだ。西暦1526年にフランスのみならず、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどと共にコニャック同盟を結んだわけだ。その結果、ハプスブルク家の皇帝カール5世は西暦1527年に軍をイタリアに侵入させたんだ。
コニャック同盟の軍はスペインや神聖ローマ帝国の大軍を防ぐことはできなかった。窮した教皇クレメンス7世はヴァティカンから続くレオニーネの城壁の中の通路を利用してサンタンジェロ城に逃げ込んだ。(上の画像の中央から右下に続いているのが教皇の逃げ道のあるレオニーネの城壁。)
ヴァティカンを守って全滅したスイス衛兵攻める神聖ローマ帝国の軍の中には、ドイツの傭兵も多かった。その中にはカトリックと対立するプロテスタントも少なくなかった。彼らにとってはヴァティカンは憎むべき相手の総本山だった。その結果、神聖ローマ帝国軍の兵士たちによって、激しい殺戮と破壊が行われたわけだ。カトリックである皇帝カール5世が望んだことではなかったにしても。 そんな激しい攻撃に対してヴァティカンを守ろうとしたのがスイス衛兵だった。(右の画像は、今もヴァティカン宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を警護するスイス衛兵の様子なんだ。) でも、衆寡敵せず。大軍の前にスイス衛兵は全滅してしまった。その日(5月6日)は今でもヴァティカンのスイス衛兵隊の記念日とされていて、式典が行われているらしい。新兵の入隊式もその日に行われるんだそうな。 ちなみに、西暦1789年のフランス革命の後、ルイ16世とマリー・アントワネットがパリのテュイルリー宮殿に移されたんだけど、その宮殿を人々が襲った際にもスイス衛兵たちは全滅したんだそうな。
サンタンジェロ城に逃れた教皇クレメンス7世ローマ教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、彼を取り囲む人々は城を守って戦ったらしい。その中にはイタリアのマニエリズムを代表する彫刻家チェッリーニもいたそうな。でも、間もなく降伏し、教皇は数ヶ月に渡って城内で監禁状態に置かれている。(下の画像はサンタンジェロ橋から眺めたサンタンジェロ城。)
やがて教皇はハプスブルク家の皇帝カール5世と結び、西暦1530年にはボローニャにおいて皇帝の戴冠式を挙げている。更には、皇帝の支援の上に、自分の生家であるメディチ家によるフィレンツェ支配を確立してもいる。自分の判断の故にローマ劫略を招いた教皇だけど、転んでもただでは起きない人物だった。
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