イタリアのマニエリズムの彫刻家チェッリーニイタリアを中心として16世紀後半に見られるマニエリズムとは、ルネサンス(ラファエロやミケランジェロなど)からバロック(カルバッジョやベルニーニなど)への流れをつなぐ芸術様式 ・・・ なんだそうな。そんなマニエリズムを代表する芸術家の一人が、彫刻家のチェッリーニだった。ここで彫刻家と書いたんだけど、彼は金細工師でもあり、画家でもあり、音楽家でもある。更には戦いになれば銃を構え、ケンカで殺人を犯したこともある。とんでもなく興味深い人物だよね。というわけで、このページの主役に抜擢されたわけだ。
そんなとんでもない芸術家チェッリーニの代表作とされているのが、上の画像にあるペルセウス像なんだ。このペルセウスが左手に掲げているのはメデューサの首なんだけど、首を切り取られた胴体はペルセウスの足の下に横たわっている。西暦1554年頃に完成されたこの像は、イタリアの古都フィレンツェのシニョーリア広場に面したロッジア・ディ・ランツィで見ることができるんだ。
金細工師にして音楽家チェッリーニと銃とケンカと処刑台彫刻家チェッリーニは西暦1500年にフィレンツェで生まれた。彼は15歳の時に金細工師に弟子入りしている。その後はシエナ、ボローニャ、ピサ、フィレンツェなどを転々とし、金細工師として働く一方で、音楽家として演奏していたりする。彼の父親はメディチ家に仕える音楽家だったから、彼もその訓練を受けて育ったんだろうね。チェッリーニがローマに向かったのは、19歳のときだった。ローマで金細工師として働いていた彼は、やがてメディチ家出身の教皇クレメント7世の目に留まった。教皇は彼を金細工師として見ただけではなく、教皇の宮廷音楽家の一人にしたんだそうな。 そして西暦1527年、ローマ教皇クレメント7世がフランス王フランソワ1世の側に立ったことに怒った皇帝カール5世の軍によるローマ劫略が起こった。教皇と共にサンタンジェロ城(下の画像)に籠城したチェッリーニは、迫り来る皇帝軍の兵士たちに対して銃を手にして戦ったんだそうな。
その2年後、ローマでチェッリーニの兄が殺害された。といっても、非があるのは彼の兄の方だった。にも拘わらず、彼は兄を殺害した人物を殺して復讐を果たしている。その後、更にチェッリーニはケンカの際に人を殺してしまった。
パリで過ごした彫刻家チェッリーニ釈放されたチェッリーニに声をかけてきたのが、フランス王フランソワ1世だった。その誘いに乗った彼は、西暦1540年にフランスの首都パリに移り、王の宮廷で働き始めた。
上の画像はパリのオルセー美術館から眺めたセーヌ川の向こうのルーブル美術館なんだ。フランス王フランソワ1世は西暦1527年にルーブルを王宮と定めていたから、チェッリーニもここで働いたかもしれないね。
彫刻家チェッリーニとフィレンツェ大公コシモ1世西暦1545年に郷里に戻ったチェッリーニは、フィレンツェ大公コシモ1世の支援を得ている。このページの冒頭の画像に見えるペルセウス像の制作も、コシモ1世の示唆によるものだった。
そんなコシモ1世の胸像(上の画像)をチェッリーニが制作したのは、フィレンツェに戻って3年後の西暦1548年のことだった。(この胸像はフィレンツェのバルジェッロ博物館で見ることができる。)
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