ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1548年、イタリアのマニエリズムの彫刻家チェッリーニが、フィレンツェ大公コシモ1世の胸像を制作した。


イタリアのマニエリズムの彫刻家チェッリーニ

イタリアを中心として16世紀後半に見られるマニエリズムとは、ルネサンス(ラファエロミケランジェロなど)からバロック(カルバッジョベルニーニなど)への流れをつなぐ芸術様式 ・・・ なんだそうな。

そんなマニエリズムを代表する芸術家の一人が、彫刻家のチェッリーニだった。ここで彫刻家と書いたんだけど、彼は金細工師でもあり、画家でもあり、音楽家でもある。更には戦いになれば銃を構え、ケンカで殺人を犯したこともある。とんでもなく興味深い人物だよね。というわけで、このページの主役に抜擢されたわけだ。

イタリアの古都フィレンツェのシニョーリア広場に面したロッジア・ディ・ランツィで見たチェッリーニによるペルセウス像

そんなとんでもない芸術家チェッリーニの代表作とされているのが、上の画像にあるペルセウス像なんだ。このペルセウスが左手に掲げているのはメデューサの首なんだけど、首を切り取られた胴体はペルセウスの足の下に横たわっている。西暦1554年頃に完成されたこの像は、イタリアの古都フィレンツェシニョーリア広場に面したロッジア・ディ・ランツィで見ることができるんだ。

金細工師にして音楽家チェッリーニと銃とケンカと処刑台

彫刻家チェッリーニは西暦1500年にフィレンツェで生まれた。彼は15歳の時に金細工師に弟子入りしている。その後はシエナボローニャピサ、フィレンツェなどを転々とし、金細工師として働く一方で、音楽家として演奏していたりする。彼の父親はメディチ家に仕える音楽家だったから、彼もその訓練を受けて育ったんだろうね。

チェッリーニがローマに向かったのは、19歳のときだった。ローマで金細工師として働いていた彼は、やがてメディチ家出身の教皇クレメント7世の目に留まった。教皇は彼を金細工師として見ただけではなく、教皇の宮廷音楽家の一人にしたんだそうな。

そして西暦1527年、ローマ教皇クレメント7世がフランス王フランソワ1世の側に立ったことに怒った皇帝カール5世の軍によるローマ劫略が起こった。教皇と共にサンタンジェロ城(下の画像)に籠城したチェッリーニは、迫り来る皇帝軍の兵士たちに対して銃を手にして戦ったんだそうな。

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサンタンジェロ城

その2年後、ローマでチェッリーニの兄が殺害された。といっても、非があるのは彼の兄の方だった。にも拘わらず、彼は兄を殺害した人物を殺して復讐を果たしている。その後、更にチェッリーニはケンカの際に人を殺してしまった。

さすがにまずいと思ったか、彼はナポリに逃亡している。バロックの画家カラバッジョも殺人犯として逃亡していたけど、チェッリーニも負けていないよね。ところが、何人かの枢機卿たちのとりなしもあり、彼は赦免を得ている。才能があると助けてくれる人が現れるんだね。

西暦1538年、彼は再びサンタンジェロ城の中にいた。といっても、今度は戦うためじゃない。城の中に監禁されたらしい。というのも、教皇冠の宝石をくすねたとの疑いをかけられたんだそうな。処刑されてしまう怖れもあった。ところが、またもや枢機卿などのとりなしで釈放されている。しかし、才能のある芸術家なんだろうけど、とんでもない人物だよね。

パリで過ごした彫刻家チェッリーニ

釈放されたチェッリーニに声をかけてきたのが、フランス王フランソワ1世だった。その誘いに乗った彼は、西暦1540年にフランスの首都パリに移り、王の宮廷で働き始めた。

フランスの首都パリのオルセー美術館から眺めたセーヌ川の向こうのルーブル美術館

上の画像はパリのオルセー美術館から眺めたセーヌ川の向こうのルーブル美術館なんだ。フランス王フランソワ1世は西暦1527年にルーブルを王宮と定めていたから、チェッリーニもここで働いたかもしれないね。

ところが、チェッリーニは王の周辺の人々とまったく上手くいかなかった。でも、さすがに王の周辺の人々とケンカをしてぶち殺すわけにはいかないよね。というわけで、ストレスのたまるパリでの暮らしを切り上げて、郷里のフィレンツェに戻って行ったわけだ。

彫刻家チェッリーニとフィレンツェ大公コシモ1世

西暦1545年に郷里に戻ったチェッリーニは、フィレンツェ大公コシモ1世の支援を得ている。このページの冒頭の画像に見えるペルセウス像の制作も、コシモ1世の示唆によるものだった。

イタリアの古都フィレンツェのバルジェッロ博物館で見たチェッリーニによるフィレンツェ大公コシモ1世の胸像

そんなコシモ1世の胸像(上の画像)をチェッリーニが制作したのは、フィレンツェに戻って3年後の西暦1548年のことだった。(この胸像はフィレンツェのバルジェッロ博物館で見ることができる。)

その後の彼は、コシモ1世が設立したアカデミア美術学校アカデミア美術館はその付属施設)の先生にもなった。家庭を持ち、子供にも恵まれた。そんなチェッリーニが亡くなったのは西暦1571年のこと。銃を手に敵兵と戦い、ケンカで殺人を犯した若い頃とは正反対の晩年だった ・・・ のかな。

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