テューダー朝のイングランド王ヘンリー8世と英国国教会テューダー朝のイングランド王ヘンリー8世は、西暦1532年にイングランドの聖職者に対する立法権を掴み取り、その翌年にはイングランド内の聖職者がローマの教皇に上告することを禁止したんだ。その上でヘンリー8世は、西暦1533年には歴史あるカンタベリー大聖堂(右の画像)の大司教に配下のトマス・クランマーを就任させ、その大司教に王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚(婚姻無効)を確認させた。 そして、やっとのことでアン・ブーリン(女王エリザベス1世の母)と再婚することが出来たわけだ。ところが、そのアン・ブーリンもロンドン塔に送り込んで処刑し、それ以後も次々と4人の王妃を迎えたんだ。 なかなか離婚(婚姻の無効)を認めてくれないローマ教皇ではなく、物わかりの良いカンタベリー大司教がいれば、離婚も結婚も好き放題 ・・・ とは言わなかっただろうけどね。 続いて西暦1534年には、首長令(国王至上法)を成立させた。つまりは、イングランドにおけるキリスト教の教会組織のトップは、イングランド国王であるというわけだ。つまりは、ローマ教皇のことは今後は気にしないでも良い ・・・ と言ったかどうかはわからないけれども、ともかくローマ・カトリックとは決別した英国国教会が成立したわけだね。
イングランド王ヘンリー8世による修道院の解散英国国教会の成立によってローマ教皇のことを気にしなくても良いということになったならば、更に欲が出てくるというのが人間なのかもしれない。西暦1535年には、イングランド国内にあった小さな修道院の解散を命じたんだ。小さな修道院だけということだったから、広い領地を持つ力のある修道院が反対することもなかった。でも、きっと小さな修道院も美味しかったのかもしれない。イングランド全土で無数にある修道院の土地や財産がイングランド王ヘンリー8世の手許に入ってきたんだからね。となれば、大きな修道院はもっと美味しいかもしれない ・・・ と思ったか、どうだか。ともかく西暦1539年には大修道院の解散も決めてしまった。 修道院の連中はイングランド内にあっても、ローマ教皇の命令に従うばかりだから、イングランド王ヘンリー8世としては気に食わなかったんだね。しかも、イングランド内に修道院は広大な土地と莫大な財産を持っていた。それが我が物になるならば ・・・。
上の画像は、イングランド南部のカンタベリーにある聖アウグスティヌス修道院跡。西暦597年にイングランドでカトリックの布教を始めた聖アウグスティヌスが建てた修道院なんだけど、この修道院もヘンリー8世によって解散させられちゃったわけだ。 イングランド王ヘンリー8世とローマ教皇とカトリック諸国ローマ教皇を気にすることなく、離婚と結婚を繰り返し、イングランドの修道院を解散させるヘンリー8世。もちろん、ローマ教皇も黙ってはいない。西暦1538年には、教皇パウルス3世がヘンリー8世を破門している。でも、ヘンリー8世はどの程度に反省したんだろうか。ところが、好き放題をするイングランド王ヘンリー8世に対して、フランスやスペインなどのカトリック諸国は大いに反発を強めていたんだ。特に離婚された最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの甥には、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世もいた。
ヘンリー8世は、そんなカトリック諸国がイングランドに侵攻してくることを心配した。というわけで、イングランドの守りを固める為に、例えば上の画像にあるディール城などを築いたんだ。
ヘンリー8世の死、やがてテューダー朝の断絶離婚と再婚を繰り返したヘンリー8世だったけれども、望んだ男子はエドワード6世一人だけを得たにとどまった。多くの修道院を解散させてその財産を手に入れたけれども、むやみやたらと戦争をしたおかげで財産はさほど残らなかった。そして西暦1547年、テューダー朝のイングランド王ヘンリー8世が亡くなった。イングランド王となった唯一の息子エドワード6世は、即位6年、15歳で亡くなった。ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンが残した女王メアリー1世は、熱心なカトリックであり、英国国教会の信者を迫害し、在位5年で亡くなった。 ロンドン塔で処刑されたアン・ブーリンが残した女王エリザベス1世は、45年間の長期にわたってイングランド王位を保ったものの、生涯を独身ですごし、子供を残さずに亡くなり、ヘンリー8世のテューダー朝は断絶。 西暦1603年にイングランドの王位を継いだのは、スコットランド王家のジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)だった。その母親は、イングランド女王エリザベス1世が処刑したメアリー・スチュアートだった。
その後もイングランド王とカトリックの難しい関係は続く。西暦1605年にはカトリックのガイ・フォークスたちによる火薬陰謀事件があった。清教徒革命の後の王政復古で即位したチャールズ2世の時には、捏造によるカトリック陰謀事件があった。次に即位したカトリックのジェームズ2世は、やがて名誉革命で国外に逃れることになった。 ・・・ などなど。
そしてイギリスでカトリックに対する差別が撤廃されたのは西暦1829年のことだった。その年、カトリック教徒解放法が成立したんだ。ちなみに、その当時はアイルランドもイギリスの支配下にあったんだけど、その解放法の成立によってアイルランドのカトリックに対する差別も撤廃されたわけだ。
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