ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1688年、イギリスの名誉革命によりスチュアート家の国王ジェームズ2世がフランスに脱出した。


イギリス国王ジェームズ2世のフランスへの脱出と名誉革命

西暦1688年12月、オランダのオレンジ公ウィリアムの軍が次第にイギリスの首都ロンドンに近づいていた。既にフランスに向かった王妃と皇太子を追いかけて、スチュアート家のイギリス国王ジェームズ2世もロンドンを脱出するところだった。

その時、ジェームズ2世はイギリスの議会を招集する為に不可欠の国璽(国家のハンコ)をテムズ川(下の画像)に投げ込んだらしい。(この国璽をテムズ川に投げ込んだことが後に意味を持ってくる。追って説明するけど。)

イギリスの首都ロンドンを流れるテムズ川

ところが、イギリス国王ジェームズ2世はイギリス南西部で捕われ、すぐにロンドンに連れ戻されてしまった。でも、オレンジ公ウィリアムとしては、ジェームズ2世を逮捕したくもないし、まだ清教徒革命の際のチャールズ1世処刑の記憶の残る中で殉教者にもしたくない。

というわけで、再びイギリス南西部に向かうジェームズ2世にオランダ兵の警護を付けたんだそうな。そしてイギリス国王ジェームズ2世は、その王妃の願いに従い、国を捨ててフランスに向かったというわけだ。

スチュアート家のイギリス国王ジェームズ2世の即位から

元々はスチュアート家はスコットランドの王家だった。でも、イングランド王ヘンリー7世の王女の子孫でもあることから、エリザベス1世の死後にイングランドの王位を継承したわけだね。但し、イングランド王ジェームズ1世(ジェームズ2世の祖父)の母でもあるスコットランド女王メアリー・スチュアートはエリザベス1世に処刑されたけど。

西暦1649年には清教徒革命によってイギリス国王チャールズ1世が処刑されている。でも、西暦1660年には王政復古によってイギリス国王チャールズ2世が即位し、その死によって弟のジェームズ2世が西暦1685年に王位を継承したわけだね。

でも、カトリックを信じるイギリス国王ジェームズ2世の政策は次第に人々を離反させていったらしい。オックスフォードの大学の役職者として強引にカトリックを就任させたこと。ウェストミンスター宮殿の議会に自分の支持者を押し込もうとしたこと。その他の公職にも法によって禁じられているはずのカトリックを就任させたこと。

そんなこんながイングランドの人々を反発させてしまった。イングランド王ヘンリー8世ローマの教皇と決別し、英国国教会を組織した頃から、イギリスの人々はカトリックに反感を持っていたからね。

加えて、ジェームズ2世は強力な常備軍を築き、その指揮官にもカトリックを任命していた。更に、王権神授説を信じていたジェームズ2世は、議会も閉会してしまった。

そんなイギリス国王ジェームズ2世の政策について、英国国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂の大主教は考え直すように手紙を書いたらしい。ところが、それが煽動的な中傷であるとして大主教が逮捕されたらしい。もっとも、後に裁判で大主教は無罪になったらしいけど。

イギリス国王ジェームズ2世のカトリック重視の政策に反発していた人々を絶望させたのが、王子ジェームズの誕生だった。国王ジェームズ2世には既に2人の王女がいたけれども、先王チャールズ2世の命によって王女たちはプロテスタントとして育てられていた。ところがついに王子が生まれた。となれば、カトリックを信じる王家の支配が永続するかもしれない。そう心配した人々が接触したのがオランダ総督のオレンジ公ウィリアムだった。

オレンジ公ウィリアムのイギリス上陸

国王ジェームズ2世の王女メアリーはプロテスタントとして育ち、オランダ総督のオレンジ公ウィリアムと結婚していた。そのオレンジ公ウィリアムの母はイギリス王チャールズ1世の王女だった。

そんなオランダ総督の宿敵はフランスのルイ14世だった。ルイ14世は、かつてイギリス国王チャールズ2世とドーバーの密約を結び、合同でオランダを攻めたこともあった。というわけで、ウィリアムが怖れたのは、カトリックを信じるジェームズ2世が同じくカトリックであり従兄弟同士のルイ14世と結び、イギリスとフランスが協力してオランダを侵略してくることだった。

その最悪の事態を防ぐためには、ジェームズ2世の政策に反発するイギリスの人々の誘いに応じ、軍を率いてイギリスに上陸することが最も効果的だと考えたわけだ。しかも宿敵のフランス王ルイ14世太陽王はアウクスブルク同盟戦争を始めたから、すぐにオランダに攻め込んで来る心配も無さそうだった。

そして西暦1688年11月、オランダ軍を率いたオレンジ公ウィリアムはイギリスの南西部のデヴォンの海辺に上陸した。ウィリアムにイギリス上陸を要請したイギリス貴族たちは、すぐに馳せ参じると約束していたけど、まだその動きは無かった。

イギリスの南西部のデヴォンの中心都市エクセターにあるセント・ピーター大聖堂

上陸から数日後、ウィリアムの軍はデヴォンの中心都市エクセターに進出した。(上の画像はエクセターにあるセント・ピーター大聖堂。)

イギリス国王ジェームズ2世の軍の兵力は4万、対するウィリアムの兵力は2万。すぐに攻撃を始めるよりも、ジェームズ2世の側の自壊を待つというのがウィリアムの戦略だった。将官にカトリックを任命しているジェームズ2世の軍では、兵士たちの士気はとっても低いという情報が入っていた。

イギリス国王ジェームズ2世陣営の崩壊と
オレンジ公ウィリアムのロンドン入城

ウィリアムの戦略は正しかったみたい。ロンドンでは反カトリックの暴動が起きていた。他方で偵察部隊の間の小規模な戦闘の後、ジェームズ2世の軍は後退を始めていた。(名誉革命では流血が無かったという話は完全に真実ではない。アイルランドやスコットランドは別としても、イングランドでも戦死者は出たらしい。)

そして11月下旬にはジェームズ2世の軍の有力な部隊がウィリアムに投降した。加えて、ジェームズ2世の娘の王女アンまでも、従兄であり姉婿であるウィリアムに投降してしまった。そんな状況を受け、慎重なウィリアムの軍が進撃を始めた。

12月に入ると、イギリス各地で反カトリックの暴動が起き始めた。カトリックが根強く、火薬陰謀事件のガイ・フォークスたちが生まれたヨークでも同様だった。

イギリスの南部にあるドーバー城

更には、イングランド南部にあるドーバー城(上の画像)も暴徒が攻略した。ドーバー城の城代はカトリックの貴族だった。

オレンジ公ウィリアムが期待した通り、こうしてイギリス国王ジェームズ2世の陣営は自壊していったわけだ。そして12月中旬にオランダ軍を率いたオレンジ公ウィリアムはロンドンに入城している。既にイギリス国王ジェームズ2世は国璽をテムズ川に投げ捨ててロンドンから逃亡していた。

ウィリアム3世とメアリー2世の即位

議会が招集された。まずはイギリス国王ジェームズ2世をどう考えるのか。議会はジェームズ2世を退位させるということは拒否した。が、1) 国璽をテムズ川に放り投げ、2) フランスに逃亡したということを根拠に、ジェームズ2世は王位を捨てたとした。故にイギリス王位は空位だというわけだ。

では、次の王をどうするか。議会の意見は割れていた。ホイッグ党の急進派はウィリアムを王とすることを望んだ。穏健派はウィリアムとメアリーの両者を共に王としたがった。トーリー党はウィリアムを摂政とし、あるいはメアリーを女王とすることを考えた。

ウィリアムはイギリスを離れる可能性をほのめかした。他方でメアリーは、ウィリアムを王とするのでなければ、女王になることを拒否した。早急に事態を収拾しなければ内戦が再燃する惧れもあり、結論は両者を共に王位に即けるしかなかった。

というわけで、西暦1689年2月、イングランド王ウィリアム3世と女王メアリー2世が共同統治者として即位したわけだ。

名誉革命その後

イングランドに続いて、スコットランドも両者を共同統治者として王と女王とした。しかし、スコットランドの奥地のハイランドでは、スチュアート家のジェームズ父子を指示するジャコバイトの反乱が起きている。この西暦1689年の反乱はすぐに鎮圧されたけれども、この後もジャコバイトの反乱は何度も起こったんだ。

ロンドンを逃れたジェームズ2世は、フランスの支援を得て、王位奪還の為にカトリックが多数を占めるアイルランドに上陸した。彼はダブリンにあるクライスト・チャーチでミサに参加している。でも、その後のボイン川の戦いに敗れ、結局はフランスに去っていった。(ボイン川の古戦場はアイルランドの誇る世界遺産ニューグレンジ遺跡の近くにある。)

ロンドンにおいては、ウィリアム3世とメアリー2世はケンジントン宮殿を買い取り、そこで暮らしていた。(そのケンジントン宮殿の庭園が公園として解放されたのが、私の大好きなケンジントン・ガーデンズだったりする。)

とはいえ、フランスのルイ14世との戦いの為に頻繁にヨーロッパ大陸に渡っていたウィリアム3世は、あまりケンジントン宮殿で過ごす時間がなかっただろうね。西暦1694年には、女王メアリー2世はケンジントン宮殿で亡くなっている。

イギリスの首都ロンドンの郊外にあるハンプトン・コート宮殿

そして西暦1702年、ロンドン郊外にあるハンプトン・コート宮殿(上の画像)で乗馬をしていたウィリアム3世は、モグラの穴に足を取られた馬から落ちて負傷した。そこからケンジントン宮殿に運び込まれたウィリアム3世は、そこで亡くなったんだそうな。

その後のイギリス王位は、ジェームズ2世の王女でメアリー2世の妹のアン女王に受け継がれていく。他方で、スコットランドではジャコバイトの活動が続き、西暦1745年には、ジェームズ2世の孫のボニー・プリンス・チャーリーの反乱も起きている。しかし、彼は翌年にはカロデンの戦いに敗れ、それがジャコバイトの最後の戦いとなった。

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