フランス王アンリ4世の二人の孫フランス王アンリ4世といえば、フランスのブルボン王家の初代で、元々はプロテスタントでありながら、王となった後にカトリックとなった人物だよね。右の画像は、フランスの首都パリのサン・ドニ聖堂の地下にあるフランス王家の墓地で見たアンリ4世の胸像。 このアンリ4世の二人の孫が、イギリスとフランスの王位に就き、イングランド南部のドーバーで密約を結んだことがあるんだ。 それが西暦1670年、清教徒革命でイギリス王チャールズ1世が処刑され、王政復古となって10年後のことだね。 イギリス王チャールズ2世とフランス王ルイ14世まずイギリス王はスチュアート家のチャールズ2世。その母親はフランス王アンリ4世の娘のヘンリエッタ・マリア。そして相手のフランス王は太陽王と称されたルイ14世だった。その父親のルイ13世は、アンリ4世の息子だよね。 右の画像は、パリのサン・ドニ聖堂の地下のフランス王家の墓地にあるルイ14世の墓碑のレリーフなんだ。(ちなみに、この墓地にはルイ16世とマリー・アントワネットの墓碑もある。) つまりは従兄弟同士のこの二人なんだけど、密約の協議を始めたのは、西暦1663年のことだった。但し、それからしばらくの間は協議はなかなか進展しなかったみたいだけどね。
ドーバーの密約の締結ところが、西暦1669年から急に交渉が進展し、西暦1670年にドーバーで署名が行われたんだそうな。
上の画像は、今のドーバー城の様子。ちなみに、西暦1216年にはフランス軍がこのドーバー城を攻囲したりしていたんだけどね。
ドーバーの密約の内容そんなドーバーの密約なんだけど、以下の内容だったらしい。
フランスのオランダ侵略と第3次英蘭戦争そして西暦1672年にフランス王ルイ14世がオランダ侵略戦争を始めた。イギリスも第3次英蘭戦争に入った。ところが、フランスが提供した資金は、イギリスの戦費に充てるには不十分だった。しかも、オランダのオレンジ公ウィリアムは予想以上に善戦したんだそうな。(下の画像は、オランダのアムステルダム中央駅の夜景。この駅をモデルに東京駅は設計されたとか。)
やがて、資金不足に加えて、ロンドンのウェストミンスター宮殿を議場とする議会の圧力に耐えかね、イギリス王チャールズ2世はオランダと和約を結ばざるを得なくなった。その和約が成立したのは西暦1674年のことだった。(フランスとオランダの和約は西暦1678年に結ばれた。)
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