ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1643年、やがて絶対王政を築き上げるフランス王ルイ14世太陽王が即位した。


ブルボン家最盛期のフランス王ルイ14世太陽王の誕生と即位

西暦1638年、フランスのブルボン王家に男の子が誕生した。そして西暦1643年、父親のフランス王ルイ13世が亡くなり、まだ5歳にもならないその男の子がフランス王として即位したんだ。それが後に絶対王政を築き上げることになるブルボン家最盛期のフランス王ルイ14世太陽王だった。

フランスの首都パリにあるクリュニー中世美術館の建物

といっても、今で言えば幼稚園児の年齢の王様だからね。実際に政治を切り盛りしたのは宰相マザランだった。(上の画像はフランスの首都パリにあるクリュニー中世美術館なんだけど、かつて宰相マザランはこの建物に住んでいたこともあるんだそうな。)

宰相マザランの巧みな政策とフロンドの乱

ブルボン家の初代フランス王となったアンリ4世は元々はユグノー(フランスのプロテスタント)だった。でも、フランスは歴史的にカトリックの国だったし、アンリ4世も後にカトリックに改宗している。ところが神聖ローマ帝国を舞台とする三十年戦争においては、フランスはプロテスタントの側に立って参戦している。宿敵のハプスブルク家と戦うためにね。

その三十年戦争は西暦1648年に結ばれたウェストファリア条約によって終息したんだけど、宰相マザランの巧みな外交政策などもあり、その条約においてフランスはアルザス地方(但し、ストラスブールを除く)の大部分を獲得したんだそうな。(下の画像はアルザス地方の街コルマールにある人気の観光スポットプチ・ヴェニスの風景。)

フランス東部アルザス地方の街コルマールのプチ・ヴェニスの風景

ところが、そのウェストファリア条約が結ばれた西暦1648年にはフランス国内でフロンドの乱が発生した。その混乱は終息することなく、翌年にはまだ幼いフランス王ルイ14世太陽王も首都パリを脱出することになったんだ。ロンドンでは清教徒革命によってイングランド王チャールズ1世が処刑されたということもあり、フランス王の周辺でも緊張が高まっただろうね。

ちなみに、後にイングランドの王政復古により即位したチャールズ2世は従兄弟の関係にあり、ドーバーの密約を結んだこともある。また同じく従兄弟の関係にあるイングランド王ジェームズ2世名誉革命で危機に陥った際には、フランス王ルイ14世太陽王が支援を申し出たこともあるみたい。(結局はジェームズ2世はアイルランドで敗れ、イングランド王位奪還はならなかったんだけどね。)

話をフランスのフロンドの乱に戻そう。長く続いたフロンドの乱も次第に下火になり、西暦1652年の秋にはフランス王ルイ14世太陽王も首都パリに入ることが出来たらしい。翌年の夏にはボルドーの反乱も鎮圧され、ようやくフロンドの乱は終息したんだ。

ちなみに、西暦1844年にフランスの新聞に連載されたアレクサンドル・デュマ・ペールの小説「三銃士」の続編の「二十年後」は、このフロンドの乱の頃のフランスを舞台にしている。主人公のダルタニャンが宰相マザランの下で活躍する物語だ。その主人公は実在の人物シャルル・ダルタニャンをモデルにしているらしい。

ついでながら、更に続編の小説「ブラジュロンヌ子爵」の中で主人公ダルタニャンはイギリスの首都ロンドンに渡り、チャールズ2世の王政復古を支えることになっている。でも、実在のシャルル・ダルタニャンはロンドンにわたるなんてことはなかったみたいだけどね。

フランス王ルイ14世太陽王の結婚

西暦1658年12月、身長180センチを越える立派な体格を持つ20歳の若者になっていたフランス王ルイ14世太陽王は、リヨンの街でサヴォワ公の公女マルグリットと会った。つまりはお見合いだったらしい。(下の画像はリヨンの公園に立つフランス王ルイ14世太陽王の騎馬像。)

フランス第2の都市リヨンの公園に立つフランス王ルイ14世太陽王の騎馬像

ところが、西暦1660年にフランス王ルイ14世太陽王が実際に結婚したのは、スペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサだった。リヨンで会ったサヴォワ公の公女は、スペイン王家を動かす為の当て馬だったみたい。ずいぶんと失礼な話だけどね。(そのおかげでルイ14世の孫はスペイン王位継承権を得たんだ。スペイン継承戦争を勃発させることになったけどね。)

スペイン王女との結婚を定めたピレネー条約の締結の帰り道に、フランス王ルイ14世はフランス南部ラングドック地方の街ニームに滞在した。その際にちょいと足を伸ばしてプロヴァンス地方に残る古代ローマ帝国時代の水道橋ポン・デュ・ガールを見に行ったんだそうな。ポン・デュ・ガールはその頃から名高い観光名所だったんだね。

ちなみに、フランス王よりもハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝に近い関係にあったサヴォワ公とは、フランス王は何度も戦っているんだ。例えばルイ14世の祖父のアンリ4世はサヴォワ公と戦ってリヨン近くにあるペルージュの街を奪っている。後にルイ14世もサヴォワ公の領地だったニースエズを攻めたこともある。

宰相マザランの死とフランス王ルイ14世太陽王の親政

フランス王ルイ14世太陽王が結婚した翌年の西暦1661年、長く宰相を務めてきたマザランが亡くなった。その翌日、ルイ14世は親政を宣言した。いよいよ自らの手で絶対王政を築き上げようというわけだ。

そんな西暦1661年、彼が始めたのはパリ郊外にあるヴェルサイユ宮殿の造営だった。もちろんヴェルサイユ宮殿の完成はずっと先になるんだけどね。(下の画像はヴェルサイユ宮殿の鏡の間。)

フランスの首都パリの近郊にあるヴェルサイユ宮殿の鏡の間

そしてフランス王ルイ14世太陽王はあちこちで戦争をしている。フランドル戦争、オランダ戦争、アウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争などなど。その結果として彼がフランスに残したものは少なくないかな。

まずはアルザス地方の中心都市ストラスブールを併合している。パリには傷ついた兵士たちの為のアンヴァリッド(廃兵院)も設けている。ナポレオンのお墓があることで名高い場所だね。

他方で、戦争ばかりしていたせいで悪化した財政も残したと言われる。晩年には戦費の調達のためにヴェルサイユ宮殿の銀の食器を売ったなんて話もあるくらい。しかも、西暦1685年にはフォンテーヌブローの勅令によって、祖父のアンリ4世によるナントの勅令を破棄し、その結果として勤勉な多くのプロテスタントが国外に逃れ、その後のフランス経済の拡大の障害になったそうな。

そんなこんなが後にフランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの処刑に至るフランス革命の遠因になった ・・・ とも言われるよね。

西暦1715年9月1日の朝、フランス王ルイ14世太陽王が亡くなった。やがて彼の遺骸は騎兵隊に守られてパリ郊外に向かい、歴代のフランス王の墓所のあるサン・ドニ大聖堂に埋葬された。でも、その王家の墓所もフランス革命の際には暴かれてしまったんだ。

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