フランス王ルイ14世太陽王に対するアウクスブルク同盟の結成西暦1661年に宰相マザランが亡くなり、親政を始めたフランス王ルイ14世太陽王。フランスの首都パリの郊外に絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿を造営したことでも名高いけれども、フランスの軍備の増強を進めたことでも知られているよね。フランス王ルイ14世太陽王はそのフランス軍を指揮して、西暦1667年にはスペイン領ネーデルラント(ほぼ今のベルギー)に攻め込んでいる。続いてイギリスのチャールズ2世とドーバーの密約を結び、西暦1672年にはオランダに攻め込んでいる。 それでも王はまだ満足してはいない。西暦1681年にはアルザス地方の街ストラスブールを占領。更には西暦1685年にはフォンテーヌブロー勅令によって祖父のブルボン家初代フランス王アンリ4世が出したナントの勅令を破棄した。プロテスタントにカトリックへの改宗を強制したんだ。 その同じ西暦1685年、神聖ローマ帝国のプファルツ選帝侯が亡くなった。ルイ14世の弟の奥さんは、その亡くなったプファルツ選帝侯の妹だった。もちろんルイ14世は義理の妹さんがプファルツ選帝侯の相続人となることを要求したんだ。 そんなフランス王ルイ14世太陽王に対して、西暦1686年にはアウクスブルク同盟が結成された。参加者は神聖ローマ帝国の皇帝、ドイツ諸侯、オランダ、スペイン、スウェーデンなど。ローマの教皇庁も秘かにアウクスブルク同盟を支持していた。フランス国内でカトリックを強制した太陽王だったけど、他方ではオスマン・トルコがウィーンを攻囲した際に何もしなかった。教皇はそれに腹を立てていたんだそうな。
アウクスブルク同盟戦争を始めたフランス王ルイ14世太陽王そのウィーン攻囲は失敗に終わったけれども、ハプスブルク家はまだオスマン・トルコと戦い続けていた。神聖ローマ帝国に対して攻撃を加えるならば、オスマン・トルコとハプスブルク家との戦いが続いている今がチャンスだ。そう考えたフランス王ルイ14世太陽王は、ライン川を越えてプファルツ選帝侯領に攻め込んだ。こうして西暦1688年にアウグスブルク同盟戦争が始まった。つまりフランス王ルイ14世太陽王とアウグスブルク同盟に参加した君主たちの戦いというわけだ。但し、大同盟戦争とかプファルツ継承戦争とか九年戦争などという呼び名もあるらしいけどね。 強大な勢力を持つフランス軍は、ライン川東岸の神聖ローマ帝国の街々を次々と攻略していった。フランス軍は西暦1689年にはハイデルベルクやマンハイムまでも落としていた。(下の画像はハイデルベルクの風景。)
そんなフランス軍の進撃に対して、神聖ローマ帝国の諸侯たちは結束して立ち上がった。そんな状況でフランス軍がライン川の東岸に多くの兵力を配置せざるを得ないと見たオランダのオレンジ公ウィリアムは、イングランドの人々の要請を受け入れ、イングランド南西部のデヴォンに上陸し、ロンドンに向かって進撃したんだ。
ついでながら、イギリスではこのアウクスブルク同盟戦争の遂行の為にロンドンの中枢シティにイングランド銀行を設立している。これもフランス王ルイ14世太陽王が予想しなかった副産物と言えるかも知れないね。
フランス周辺各地で続く戦い、飢饉、そして財政危機フランス王ルイ14世太陽王は、ジェームズ2世に軍を与えてアイルランドに上陸させた。そこで態勢を立て直してイングランド王としてロンドンに戻ることを期待していたんだ。しかし、ジェームズ2世はアイルランドで敗れ、従兄が支配するフランスに舞い戻ってきた。その他にも太陽王のフランス軍はスペイン領ネーデルラントで戦い、ライン川東岸で神聖ローマ帝国の皇帝や諸侯の軍と戦い、イタリア方面ではサヴォワ公や神聖ローマ帝国軍と戦い、フランス南西部ではスペイン軍と戦いを続けていた。しかも、海上ではオランダ艦隊やイングランド艦隊と戦っていた。更にはインドや北アメリカでも戦っていた。さすがのフランスも戦費調達が難しくなっていた。
そんな状況のフランスを襲ったのが西暦1693年と翌年の寒さと長雨だった。農作物は大凶作となり、飢饉に苦しむ多くの人々がフランス各地で餓死したらしい。(上の画像はフランス南部プロヴァンス地方のヴァレンソールの小麦畑。右側遠くに見えているのはラヴェンダーの花畑なんだけど。)
陸上での戦いを優先したフランス軍そんなこんなで財政危機に陥ったフランスは、乏しくなりつつあった資源を陸上での戦いに優先的に配分したらしい。その結果として艦隊の勢力は先細りになり、英仏海峡・大西洋・地中海での制海権を失っていった。但し、サン・マロなどを拠点とする私掠船の活動は活発だった。陸上でのフランス軍はなんとか態勢を挽回しようと戦いを続けていた。神聖ローマ帝国領内では奪い返されたヘイデルベルクを再び攻略し、スペイン北東部ではバルセロナの攻略を目指していた。
スペイン領ネーデルラントではブリュッセル(今のベルギーの首都)に猛烈な砲撃を行ったらしい。(上の画像はブリュッセルの広場グラン・プラスに再建された「王の家」。ハプスブルク家の皇帝カール5世ゆかりの歴史ある建物なんだそうな。)
ライスワイク条約によるアウクスブルク同盟戦争の終息フランス周辺各地で長い戦いが続き、莫大な戦費が財政を悪化し、フランス側でもアウクスブルク同盟側でも厭戦気分が高まりつつあった。そんな状況で外交による大きな変化が生じたのが西暦1696年のこと。口火を切ったのは、フランス南東部からイタリアでフランス軍と戦っていたサヴォワ公家だった。フランス王ではなく神聖ローマ帝国の皇帝に臣従していたサヴォワ公ではあったけれども、半ば独立的な立場を謳歌していた。でも、戦いが長引くにつれて皇帝の存在感が増してきたことが懸念材料となっていた。そんなわけで、西暦1696年にサヴォワ公家はアウクスブルク同盟を離脱し、フランス王ルイ14世太陽王と和議を結んだわけだ。 その和議に従い、フランス王は占領していたサヴォワ公の領地を返還している。(下の画像はサヴォワ公に返還されたニースのサレヤ広場にあるサヴォワ公家宮殿と食べ物市の様子なんだ。ちなみに、西暦1860年にニースはフランスに割譲されている。)
ニースの和議を追うように他の戦争当事者も講和に動き始めた。西暦1697年にはライスワイクで講和会議が始まった。その年の秋、締結されたライスワイク条約によって長く続いたアウクスブルク同盟戦争が終わったんだ。
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