ローマのヴァティカン美術館・博物館にあるソビエスキ王の間イタリアの首都ローマのヴァティカン美術館・博物館の中には、いくつもの美術館や部屋がある。例えば、その中にあるピオ・クレメンティーノ美術館の八角形の中庭には古代彫刻の傑作が多いし、コンスタンティヌスの間はキリスト教の信仰を認めた古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスをテーマにした絵で囲まれている。そんなヴァティカン美術館・博物館の中にソビエスキ王の間があるんだけど、そこで見ることの出来る絵の一つが下の画像なんだ。
この絵が描いているのは、西暦1683年にオスマン・トルコによる第二次包囲からウィーンを救援したポーランド王ヤン3世ソビエスキだった。カトリックの総本山ヴァティカンとしては、その戦いによってキリスト教ヨーロッパが救われたということで、ソビエスキ王の間を作ったんだろうね。
ヤン・ソビエスキの青年時代西暦1629年、今はウクライナ領となっているオレスコの街でポーランドの名家のソビエスキ家に男の子が生まれた。ヤンと名づけられた彼は、大学を卒業した後、ヨーロッパ各国を旅して周り、各国の王族や貴族たちと交友を深めている。その旅で知り合った人々の中には、コンデ公(幼少のフランス王ルイ14世太陽王に対するフロンドの乱で反乱側に立った)や後のイングランド王チャールズ2世(清教徒革命後の王政復古で王となった)もいたらしい。
旅を終えてポーランドに帰国したヤンは、騎兵部隊の指揮官となり、反乱を起こしたコサックと戦っている。その後、国王によって公使に抜擢されたヤンは、オスマン・トルコの首都イスタンブールに派遣されている。(上の画像は今のトルコのイスタンブールの風景。)
ポーランド王ヤン3世ソビエスキの即位帰国後のヤンは、西暦1655年にポーランドに侵攻してきたスウェーデンとの戦いに参加し、活躍している。更にはコサックやタタール人との戦いにも戦功著しいヤンは更に昇進し、西暦1668年にはポーランド軍の最高司令官となっている。そして西暦1672年、ポーランドとオスマン・トルコとの戦いが始まった。公使としてイスタンブールに駐在していた間にトルコ軍の戦い方を研究していたヤンは、西暦1673年にはトルコ側の要塞を攻略する活躍をしている。 その活躍によってポーランドの人々の支持を得ていたヤンは、その年の国王選挙において圧倒的な多数の支持を得て王とされ、ポーランド王ヤン3世ソビエスキとして即位したんだ。 ちなみに、ポーランドでは16世紀後半から18世紀まで選挙によって王を選出していた。西暦1573年に選挙によって即位した最初のポーランド王は、後に最後のヴァロワ家のフランス王となったアンリ3世だった。(ついでだけど、彼の死後にブルボン家のフランス王アンリ4世が即位している。) 即位後のポーランド王ヤン3世ソビエスキは落日のポーランドの建て直しに苦労している。かつてはポーランドに従属していたものの次第に独立した勢力となっていたプロイセンを再び支配下に置くことを企画したけれども、結局は実行に至ることもなく諦めている。
その後のプロイセンは公国となり、王国となり、やがてはヨーロッパ有数の強国となっていく。上の画像は王国となったプロイセンの王フリードリヒ2世が造営したサン・スーシ宮殿の様子なんだ。
オスマン・トルコ軍に包囲されたウィーンを救援そして西暦1683年、オスマン・トルコの大軍がハプスブルク家の都ウィーンを包囲(第二次ウィーン包囲)した。神聖ローマ帝国の皇帝レオポルト1世はポーランドに救援を要請した。西暦1683年9月、ポーランド王ヤン3世ソビエスキの軍がウィーンに到着。既に夕方になっていたけれども、オスマン・トルコ軍の士気が低下しているのを見て取ったポーランド王は、直ちに攻撃を開始。ポーランドの騎兵部隊が中央突破に成功し、混乱したオスマン・トルコの大軍は壊走した。
ポーランド王ヤン3世ソビエスキの救援によってウィーン(上の画像)は救われた。ポーランド王はキリスト教ヨーロッパの英雄としての名声を得たわけだ。それでも落日のポーランドの退勢を覆すことは出来なかった。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |