ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1685年、カトリックのジェームズ2世がイギリス王(イングランド王としてジェームズ 2世、スコットランド王として 7世)として即位した。


スチュアート家の王子ジェームズの誕生

西暦1633年、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿でスチュアート家のイギリス王チャールズ1世(正しくはイングランド王にしてスコットランド王)の王子ジェームズ(後のイギリス王ジェームズ2世)が誕生した。

その年の内に王子ジェームズはカンタベリー大聖堂(下の画像)の大主教から洗礼を受けている。後にジェームズはカトリックに改宗し、イギリスの政治に大きな問題を投げかけるんだけど、若い頃は英国国教会の信徒だったんだね。

イギリスの英国国教会の総本山カンタベリー大聖堂

ちなみに、イングランド南部の中心都市カンタベリーにあるカンタベリー大聖堂は、聖アウグスティヌスの時代からイングランドのキリスト教の中心だった。イングランド王ヘンリー8世の時代からは英国国教会の総本山というわけだね。

やがてカトリックに改宗したジェームズ2世がイギリス王となると、このカンタベリー大聖堂の大主教との対立も生じる。カンタベリー大司教トマス・ベケットの時代からの伝統なのかな。(余談ながら、英国国教会では「大主教」、カトリックでは「大司教」なんだそうな。)

清教徒革命の内戦とオックスフォード

西暦1642年、父であるイギリス王チャールズ1世ウェストミンスター宮殿を議場とする議会との間の対立から、内戦が始まった。

ロンドンを本拠にイングランド南部と東部を地盤とする議会派に対し、王党派はオックスフォード(下の画像)を本拠に、イングランド西部・北部、ウェールズコーンウォールなどを地盤としていた。

イギリスのオックスフォード大学の風景

王子ジェームズの母にしてフランス王女だった王妃ヘンリエッタ・マリアは、内戦が始まった年に実家のあるフランスの首都パリルーブル宮殿(今は美術館)へ逃れた。他方、王子ジェームズは国王派の本拠だったこのオックスフォードにいたらしい。

議会派の勝利と父チャールズ1世の処刑

内戦が始まってしばらくは国王派が有利に戦いを続けていた。でも、次第に議会派が優勢となり、ヨークチェスターウェールズ南部などの国王派の拠点も陥落し、西暦1646年にオックスフォードも議会派に降伏した。

オックスフォードにいた王子ジェームズも議会派に捕えられ、ロンドンで監禁されることとなった。でも、西暦1648年には国王派の手助けによって海外に逃亡したらしい。

ところが、西暦1649年には父であるイギリス王チャールズ1世が処刑され、兄であるチャールズ2世はスコットランドのスクーンでスコットランド王となったもののクロムウェルに敗れて海外へ逃れることとなった。その後の王子たちはフランスなどで亡命生活を過ごしていた。

王政復古と兄チャールズ2世のイギリス王即位

亡命生活を送っていた王子ジェームズは、兄がイギリス王位を回復することはできないと考えていた。というわけで、誘いのあったスペイン海軍の提督となることを考えていたんだそうな。

ところが、クロムウェルが亡くなって2年後の西暦1660年にイギリスの王政復古によって、兄がイギリス王チャールズ2世として即位した。王子ジェームズは子供のいない兄王の有力な王位継承候補となったわけだ。

その前年のことなんだけど、亡命中の王子ジェームズは平民のアン・ハイドと結婚の約束をしていた。ところが、いきなり王の弟の王子ジェームズは王位継承の有力候補となっちゃった。王子ジェームズが平民のアンとの結婚の約束を守るとは誰も思わなかったらしい。

でも、王子ジェームズは彼女との約束を守ってアンと結婚した。その二人から生まれた二人の王女メアリーとアンは、やがてイギリスの女王として即位することになるんだ。

王子ジェームズのカトリックへの改宗

亡命生活を過ごしたフランスで王子ジェームズはカトリックのミサや典礼などに触れる機会が多かったんだそうな。そんな王子ジェームズは、やがてカトリックに改宗している。王政復古でロンドンに戻ってから10年ほど後のことだろうと推測されている。

でも、王子ジェームズはカトリックに改宗したことを秘密にしていた。英国国教会のミサなどにも出席していたんだそうな。イングランド人の多くは英国国教会の信徒だし、ガイ・フォークスなどの火薬陰謀事件などもあり、イギリスではカトリックやローマ教皇庁に対する反感が強いからね。

ところが、西暦1673年、イングランドに新しい審査法が成立した。その審査法によれば、公職あるいは軍務につく人々は英国国教会の手続きに従って誓いを立てることが求められた。でも、王子ジェームズはそれに従うことを拒否した。その結果、彼がカトリックに改宗していたことが露見し、彼は海軍総司令官の職も去ることとなったわけだ。

その2年前の西暦1671年、王子ジェームズの奥方となっていた平民出身のアンが亡くなっていた。そして、西暦1673年には王子ジェームズはイタリアの貴族出身でカトリックのメアリーと再婚している。このメアリー妃についても、イングランドの人々は反発したらしい。

西暦1678年には、捏造によるカトリック陰謀事件の騒ぎが始まった。イギリスでのカトリックに対する反感は更に強まり、王位継承からカトリックを排除する法案を議会が審議している。そんな議会をイギリス王チャールズ2世が解散させ、法律の成立を阻止することが3度もあったらしい。

そんな過熱した状況を冷ます為に、イギリス王チャールズ2世は弟の王子ジェームズを海外に送り出し、更には西暦1680年には、スコットランドに送り込んだ。スコットランドに移った王子ジェームズは、エディンバラにあるホリールード宮殿(下の画像)に住んだ。

スコットランドの首都エディンバラにあるホリールード宮殿(イギリス)

このエディンバラのホリールード宮殿なんだけど、イギリス王チャールズ2世や王子ジェームズの祖父イギリス王ジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)の母親のスコットランド女王メアリー・スチュアートも住んでいた場所だった。

ついでながら、この女王メアリー・スチュアートもカトリックだったんだけど、スコットランドの宗教改革の動きの中でロッホ・レーベンに幽閉され、退位させられている。やがてイングランドに逃れてきて、女王エリザベス1世の王位をうかがい、処刑されたんだけどね。

イギリス王ジェームズ2世の即位とモンマス公の反乱

多くのカトリックを犠牲にしたカトリック陰謀事件は捏造だったことが発覚した。更には西暦1683年にはチャールズ2世と王子ジェームズを暗殺し、共和制を樹立しようとしたライ・ハウス陰謀事件が発覚した。そんなこんなでカトリックに対する反感は弱まる結果になったわけだ。

そして西暦1685年、死の寸前にカトリックに改宗したイギリス王チャールズ2世が亡くなった。イギリス王ジェームズ2世(正しくはイングランド王ジェームズ2世にしてスコットランド王ジェームズ7世)が即位し、ウェストミンスター寺院で戴冠式が行われた。

でも、6月には反乱が起きている。まずはスコットランドのハイランドの人々を集めたアーガイル伯の反乱が起きた。すぐに鎮圧されたけど・・・。加えて、そのアーガイル伯と同調して起きたのが、先王チャールズ2世の庶子モンマス公の反乱だった。

そのモンマス公も間もなく捕えられ、翌月にはテムズ川のほとりのロンドン塔(下の画像)で処刑されている。その他にも反乱に参加した人々のうちの250人ほどが処刑されたらしい。

イギリスの首都ロンドンを流れるテムズ川の南岸から眺めたロンドン塔

そんな反乱も、始まりに過ぎなかった。イギリス王ジェームズ2世の統治下で事態は更に紛糾し、波乱が起こっていくわけだ。それは項をあらためて詳しく書くかな。

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