カトリックの根強いヨークなどイギリス北部王妃キャサリンと離婚してアン・ブーリンとの再婚を求めたイングランド王ヘンリー8世は、ローマの教皇と決別して英国国教会を組織し、ファウンテンズ・アビーなどの修道院を解散させたわけだ。そんな動きに反対したのは、テムズ川のほとりのロンドン塔に幽閉されたトマス・モアなどだけじゃなかった。特にカトリックが根強いヨークなどのイングランド北部では、ヘンリー8世の政策に反対し、修道院やカトリックを擁護しようという動きが強かったらしい。 そんなカトリック擁護の動きの中でも、西暦1536年に起こった恩寵の巡礼と呼ばれる反乱は、数万人が参加してヨークを占拠するに至ったんだそうな。その上、その指導者だったロバート・アスクはロンドンまで行き、イングランド王ヘンリー8世と面談したほどだった。
でも、結局は恩寵の巡礼の指導者ロバート・アスクは捕えられ、ヨーク城の天守クリフォード・タワーの最上部(上の画像)に吊るされて処刑されたんだそうな。 カトリックを信じるガイ・フォークスとイングランド王ジェームズ1世指導者ロバート・アスクは処刑され、恩寵の巡礼などのカトリックの反乱は失敗に終わった。でも、ヨークなどイギリス北部を中心にカトリックを信じる人々は残っていたんだ。恩寵の巡礼から34年、西暦1570年にヨークで生まれたガイ・フォークスの両親は英国国教会の信徒だった。でも、早くに父が亡くなり、母が再婚した相手はカトリックだった。そもそも母の実家の人々はカトリックだった。そしてガイ・フォークスが通ったのもカトリックの強い学校だった。そんなガイ・フォークスは熱心なカトリックとして育ったらしい。 16世紀末にはヨーロッパ大陸に渡っていたガイ・フォークスは、フランドル地方でカトリックを信奉するスペインの為に傭兵として戦っていた。プロテスタントのオランダの独立を妨げる戦いだった。 そして西暦1603年、スコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として即位(以後、「イギリス王」とするかな)した。その母親で元スコットランド女王メアリー・スチュアートはエリザベス女王のイングランド王位をうかがい、西暦1567年に処刑されている。でも、そのメアリーはイングランド王ヘンリー7世の曾孫であり、その母親からイングランド王位継承権を受け継いだわけだ。 そんなイギリス王ジェームズ1世をガイ・フォークスは異端者だと考えていた。英国国教会の信者を優遇しすぎると。そしてガイ・フォークスはスペインを訪れている。イギリスでのカトリックの反乱を支援することを依頼する為だったらしい。スペインに期待した支援は得られなかったらしいけど。
ロンドンのウェストミンスター宮殿の爆破計画 「火薬陰謀事件」イギリスに戻ったガイ・フォークスは、イギリス王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの国王を即位させようという陰謀を計画するグループに参加した。その中には、ヨークの学校で一緒に学んだ仲間たちもいたらしい。彼らの計画では、ロンドンのウェストミンスター宮殿で開催される国会にイギリス王ジェームズ1世が出席する機会を狙って、宮殿を爆破しようというものだった。(下の画像は今のビッグ・ベンとウェストミンスター宮殿。宮殿は西暦1834年に焼失して再建されている。)
彼らは、たくさんの火薬の樽をこっそりとウェストミンスター宮殿の地下室に運び込み、その火薬を薪や炭で隠しておいた。そして国会開催の初日に爆破を実行することにしたんだけど、その数日前になり、国会に参加するカトリックの議員のことが心配になった。
ガイ・フォークスの拷問と陰謀参加者の処刑捕えられたガイ・フォークスは、当初は偽名だけを名乗り、自分の名前も陰謀の仲間たちの名前も言わなかったらしい。でも、イギリス王ジェームズ1世の命によってガイ・フォークスに拷問が加えられ、やがて陰謀参加者の名前も明らかになってしまった。ちなみに、逮捕後のガイ・フォークスはロンドン塔に監禁され、取調べや裁判の為に艀に乗せられてロンドン塔とウェストミンスターとの間を往復したらしい。(下の画像はロンドンを流れるテムズ川の遊覧船。向こう側にセント・ポール大聖堂も見える。艀の上のガイ・フォークスも、こんな風景を見ていたかも。)
年が明けて西暦1606年、「火薬陰謀事件」容疑者全員に有罪の判決が下った。そしてガイ・フォークスたち全員がウェストミンスターで処刑されたんだそうな。
ガイ・フォークたちの火薬陰謀事件、その後その後、11月5日はガイ・フォークス・ナイト、あるいはガイ・フォークス・ディとかプロット・ナイト(陰謀の夜)などと呼ばれ、かがり火を燃やして騒ぐ習慣になったそうな。かがり火だけじゃなく、17世紀の半ばからは花火を打ち上げることも加わり、やがてガイ・フォークスの人形を燃やしたりするようにもなったらしい。他方で、イギリスではカトリックに対する厳しい見方はガイ・フォークスたちの火薬陰謀事件の後も続いた。カトリックのイギリス王ジェームズ2世は、名誉革命によって国外に追われた。18世紀後半に「ローマ帝国衰亡史」を著したエドワード・ギボンはオックスフォード在学中にカトリックに改宗し、その結果として大学を中退することになっている。 西暦1829年にはイギリスでカトリック教徒解放法が成立している。でも、ウェールズ南部にある観光名所のカステル・コッホやカーディフ城で有名な第3代ビュート侯爵ジョン・スチュアートがカトリックに改宗した時には、大騒ぎになったんだそうな。小説の題材にまでなったらしい。イギリスのカトリックについては、この後も色々とあったみたいだね。
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