イングランド王ヘンリー8世が王妃の為に改装したリーズ城イギリスの首都ロンドンから南西へ、イングランド南部にあるカンタベリーとの間にリーズ城(下の画像)がある。このリーズ城が、このページの主役であるイングランド王ヘンリー8世と関わりの深い場所なんだ。
父のヘンリー7世の王位を継承して、西暦1509年にイングランド王となったヘンリー8世は、その同じ年にキャサリン・オブ・アラゴンと結婚した。キャサリンはヘンリー8世の兄アーサーの妃だったけれども、アーサーは既に亡くなっていたんだ。そしてヘンリー8世は、王妃キャサリンの為に西暦1519年にこのリーズ城を改装している。奥さんに優しい旦那さんだったみたいだよね。「昔は優しかった」というのはよく聞くセリフだけどね。
イングランド王ヘンリー8世の離婚問題と教会イングランド王ヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの結婚は、西暦1533年まで続いた。24年間は続いたわけだよね。でも、後継者となる王子を求めていたヘンリー8世は、王女メアリーしか誕生しなかったキャサリンとの結婚に失望しちゃったらしい。西暦1527年には、ローマの教皇に対して、キャサリンとの結婚の無効(離婚を認めないカトリックにおいては、つまりは実質的に離婚のことだよね)を確認するように要望した。でも、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ帝国皇帝カール5世が怖い教皇クレメンス7世は結婚の無効なんて認めなかった。西暦1529年にもヘンリー8世は同じ要望をローマ教皇に送ったものの、期待した返事をもらえなかったイングランド王ヘンリー8世は完全にヘソを曲げちゃったんだ。 西暦1531年には、イングランドのキリスト教組織のトップはイングランド王ヘンリー8世であるとイングランドの聖職者たちに認めさせた。西暦1532年には、イングランドの聖職者に関する立法権がイングランド王に移された。そして西暦1533年には、教皇上告禁止法が定められ、イングランドの聖職者たちがローマ教皇に上告することが禁止されたんだ。 そしてイングランド王ヘンリー8世にとって物わかりの良いトマス・クランマーがカンタベリー大聖堂の大司教になった。そのトマス・クランマー大司教は、ヘンリー8世と王妃キャサリンとの結婚が無効であることを認めたわけだ。カンタベリー大司教の歴史においては、イングランド王と対立して追放された聖アンセルムスや殺害されたトマス・ベケットなどもいるんだけどね。もう昔のことだったのかな。 時は流れて17世紀の後半、清教徒革命の後のイギリスの王政復古によって即位した兄のチャールズ2世の王位を継承したジェームズ2世はカトリックだった。そのカトリックを尊重する政策を考え直すようにと王に意見したのが当時のカンタベリー大聖堂の大主教だったそうな。でも、王はその意見に従わず、やがて名誉革命で海外へ逃れることになっちゃった。しかし、王と宗教との関係は難しいもんだね。
ヘンリー8世とアン・ブーリン(女王エリザベス1世の母)の再婚ともかくも条件は整い、かつてキャサリン・オブ・アラゴンの侍女だったアン・ブーリンは、西暦1533年6月にはイングランド王ヘンリー8世の正式な王妃となったんだそうな。そのアン・ブーリンの王妃としての戴冠式は、イングランド王室の歴史あるウェストミンスター寺院(右の画像)で挙行された。 それから3ヵ月後、アン・ブーリンは王女を出産した。後のイングランド女王エリザベス1世だね。 つまりは、ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚は、いわゆる「出来ちゃった結婚」ということだったみたい。
ところで、ちょいと余談なんだけど、このアン・ブーリンはキャサリン・オブ・アラゴンの侍女になる前にはフランスにいたらしい。フランス王ルイ12世の娘でフランソワ1世の王妃クロードの侍女だった。というわけで、フランスの首都パリでも過ごしただろうけど、当時のフランス王室が好んでいたロワール川のほとりのブロワ城とかでも過ごしていたんだろうね。
アン・ブーリンのロンドン塔幽閉と処刑ローマ教皇をも巻き込んだ数年間に渡る大騒ぎの挙句、ようやく西暦1533年に結婚したイングランド王ヘンリー8世とアン・ブーリン。ところが、おちゃめな中年のヘンリー8世、次はアン・ブーリンの侍女ジェーン・シーモアが好きになっちゃった。
というわけで、西暦1536年には王妃アン・ブーリンは国王暗殺の陰謀に関与したとかで反逆罪で死刑判決を受け、上の画像にあるテムズ川のほとりのロンドン塔で処刑されちゃった。
イングランド王ヘンリー8世のその後アン・ブーリンを処刑してまで結婚したジェーン・シーモアは、ヘンリー8世が望んでいた王子エドワード(後にイングランド王エドワード6世)を出産したんだ。ところが、その出産の直後に亡くなってしまった。その次にはアン・オブ・クレーヴズと再婚。ところが、そのアンさん、事前にヘンリー8世が見せられた肖像画とあまりに違うということで、結婚した西暦1540年に離婚(正確には再び婚姻の無効)。ヘンリー8世は実は面食いだったのか ・・・。ちなみに、その結婚をヘンリー8世に勧めた側近のトマス・クロムウェルは、同じ西暦1540年にロンドン塔に幽閉され、やがて処刑されちゃった。お見合いを勧めるのも考えものだね。 その西暦1540年にヘンリー8世が結婚したのが、上に書いたアン・オブ・クレーヴズの侍女だったキャサリン・ハワード。彼女はアン・ブーリンの従妹でもあったんだそうな。このキャサリンは二年後に処刑された。処刑の理由は反逆罪ということなんだけど、早い話が他にカレシがいたとか ・・・。 ちなみに、彼女はヘンリー8世に無実を直訴しようとして、その直前に捕えられ、直訴することもできなかったんだそうな。その場所がロンドン郊外にあるハンプトン・コート宮殿だったんだけど、そのハンプトン・コート宮殿に出没する幽閉の一人が、このキャサリン・ハワードだと ・・・。 そしてイングランド王ヘンリー8世の最後の王妃は、キャサリン・パーという女性。彼女は、ヘンリー8世の子供たちの先生だったらしい。つまりはテューダー朝イングランドにおける「王様と私」というわけだね。彼女の場合は夫であるヘンリー8世に先立たれて未亡人になっている。幸か不幸か ・・・ 難しいところだね。 というわけで、キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚(婚姻の無効)が認められて後、約10年間で5人の王妃を迎えたイングランド王ヘンリー8世だった。が、望んでいたものの得られた王子はエドワード6世のみ。そのエドワード6世も若くして亡くなり、メアリー1世、エリザベス1世と女王が続いた後にテューダー朝は断絶してしまった。その後のイングランド王位は、スコットランド王家のメアリー・スチュアートの子孫に継承されていくわけだ。
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