人文主義者 エラスムスと聖書と宗教改革ルターが「95か条の論題」を提示して宗教改革の口火を切ったのは西暦1517年なんだけど、その前に後の宗教改革に大きな影響を与えた人物が重要な出版を行っている。それが人文主義者エラスムスだった。彼は西暦1516年にバーゼルにおいて「校訂新約聖書」を出版している。エラスムスは誰もが聖書を読んで聖書に基づく暮らしを送ることが出来るようにと考えていたんだ。その点ではルターの万人祭司主義の先駆者といえるみたい。 ちなみに下の画像は、エラスムスが新約聖書を出版したバーゼルにあるミュンスターの中庭の様子。かつてエラスムスもこの中庭を歩きながら宗教について考えたかもしれないね。(但し、エラスムスはローマの教皇庁の権威を否定するところまでは行かなかった。)
スイスにおける宗教改革の先駆者 ツヴィングリそんなエラスムスの人文主義的な考え方を勉強していたのが、後にスイスにおける宗教改革の先駆者となるツヴィングリだった。やがてツヴィングリは西暦1519年にチューリヒにおいて司祭となり、新約聖書の読解を始めたんだ。(下の画像はチューリヒの街の風景。) 宗教改革に乗り出したチューリヒ(スイス)ツヴィングリの活動の成果か、西暦1523年にチューリヒは宗教改革に乗り出すことを決定し、聖職者達は聖書によって証明できることのみを説教すべきこととした。(つまり、イタリアのローマに拠点を置き、聖書にも書いていないことを命ずる教皇庁のような権威は認めないということ。)更にチューリヒは西暦1524年には教会から聖画像を撤去し、その翌年にはミサさえも廃止してしまった。 スイスにおける反宗教改革の動きしかし、スイス全体が宗教改革に賛成していたわけではなかったんだ。ルツェルンなどのカトリック勢力の強い五つのカントンは、反宗教改革の歩調をとることを西暦1524年に確認している。(下の画像はカトリックの牙城ルツェルンの大聖堂の内部。)しかも、西暦1526年にはスイス盟約者同盟の会議においてカトリックが多数派を占め、スイスの宗教改革をリードしていたツヴィングリの破門と教会からの追放が決議されてしまった。スイスにおける宗教改革の先駆者ツヴィングリは孤立していたわけだ。 スイスにおける宗教改革勢力の拡大カトリック多数派の前に孤立していたスイスの宗教改革の先駆者ツヴィングリとチューリヒだったけど、次第に情勢が変わっていった。西暦1527年にはザンクト・ガレンやコンスタンツも宗教改革に乗り出した。翌年にはベルン、バーゼル、シャフハウゼンなども宗教改革に動き出したんだ。スイスにおいて宗教改革に乗り出したプロテスタント派のカントンは「キリスト教都市同盟」を結成し、対するカトリック派のカントンは「キリスト教連合」を結成。両者がにらみ合う状況となってしまった。 宗教改革をめぐるスイスの内戦と
やがて西暦1529年、プロテスタント勢力の中心チューリヒがカトリック勢力に対して宣戦布告を行い、第一次カペル戦争が始まった。但し、この内戦は中立を保っていたグラールスが仲介に乗り出し、戦闘が始まる前に和平が成立したんだけどね。 |
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