ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1649年、清教徒革命によってイギリス国王チャールズ1世が処刑された。


イギリス国王チャールズ1世の即位とフランス王女との結婚

西暦1625年、スチュアート家のイギリス国王チャールズ1世が即位した。(正しくはイングランド国王でありスコットランド国王なんだけど、以下ではイギリス国王と書くことにしちゃう。ちなみに、スチュアート家はテューダー家のイングランド王ヘンリー7世の王女の子孫であり、故にイングランド王位の継承権を持っていた。)

その同じ年、チャールズ1世はフランス王女ヘンリエッタ・マリアと結婚した。王女はフランス王アンリ4世の娘だった。アンリ4世は元々はプロテスタントだったけれども、統治の為にカトリックに改宗した人物。でも、アンリ4世は王女が生まれた直後に暗殺され、王女はイタリアのフィレンツェの名家メディチ家の出身にしてカトリックのマリー・ド・メディチに育てられた。

その結果、王女はとっても熱心なカトリックとして育っている。(下の画像はフランスの首都パリにあるルーブル美術館を、セーヌ川の南側のオルセー美術館から眺めた風景。王女はルーブルで生まれたんだそうな。)

フランスの首都パリにあるルーブル美術館とセーヌ川をオルセー美術館から眺めた

当時のイギリスとフランスの王家の間の結婚だから、言うまでもなく政略結婚だった。でも、チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアはとっても仲の良い夫婦だったらしい。お子さんは 9人も生まれている。(その中には、後のイギリス王となったチャールズ2世名誉革命で国を追われたカトリックのジェームズ2世もいる。)

でもね、フランス王女ヘンリエッタ・マリアはとっても熱心なカトリックだった。王宮の礼拝堂でもカトリックのミサを行っていたし、周囲の貴族の女性たちがカトリックに改宗したりもしたらしい。

他方、イングランド王ヘンリー8世は英国国教会を組織したし、ガイ・フォークスたちの火薬陰謀事件などもあって、イギリスではカトリックに対する反発が強かった。熱心なカトリックの王妃の存在が、後の清教徒革命の原因の一つとなったという考えもあるらしい。

イギリス国王チャールズ1世と議会との対立と内戦

もちろん、清教徒革命の最大の原因は、王権神授説を信じるイギリス国王チャールズ1世と議会との対立だったんだろうね。(イギリスの議会は、中世から原則としてロンドンにあるウェストミンスター宮殿を議場としている。)

西暦1628年にイギリス国王チャールズ1世に「権利の請願」を提出した議会を、チャールズ1世は翌年に解散させ、11年間も議会を開かずにいた。ところが、スコットランドに英国国教会の祈祷書を強制したことから、スコットランドで宗教戦争が起こり、チャールズ1世はお金が必要となった。(スコットランドではジャン・カルヴァンの教えに従う長老派 プレスビテリアンが優勢だった。)

多くの修道院を解散させたヘンリー8世の頃ならば、没収した修道院などの王領地を売却するなどで資金を作ることができた。でも、その王領地もチャールズ1世の頃には半減していた。

結局は税金を集めるために、とうとう西暦1640年に議会を招集した。でも、議会とイギリス国王とが対立し、議会は 3週間で解散させられた。この議会を通称「短期議会」と呼ぶらしい。でも、やっぱりお金が必要だ。というわけで、その年の秋に再び議会を招集したんだ。

今度の議会は「長期議会」となった。翌年にも問題は解決されず、更に翌年の西暦1642年には、チャールズ1世と議会の対立は更に激しくなった。チャールズ1世は議会の中で国王と対立する陣営の主要人物たちを逮捕しようとしたんだ。ところが、むしろ人々はそんな国王に敵対し、結局はイギリス国王チャールズ1世はロンドンから逃れる羽目になった。

そしてその年の秋、西暦1642年10月のエッジヒルの戦いから、国王派の軍と議会派の軍との間で内戦が始まった。王妃ヘンリエッタ・マリアはその年の内にイギリスを逃れ、フランスのルーブルに亡命したそうな。

国王派はオックスフォードを拠点にイングランドの北部と西部、ウェールズやコーンウォールを地盤としていた。対する議会派は、ロンドンを中心にイングランドの東部や南部を地盤としていたんだそうな。

清教徒革命(ピューリタン革命)の内戦の展開

西暦1643年頃には、経験豊富な兵士たちを組織した国王派の軍が有利に戦っていた。でも、西暦1644年には、次第に議会派の軍が態勢を立て直し始めたみたい。

イングランド北東部にあるヨークは国王派が確保していた。しかし、西暦1644年7月、ヨークを囲んだ議会派の軍と国王派の援軍との間のマーストン・ムーアの戦いで国王派の軍が敗走し、ヨークは議会派に開城してしまった。その際、議会派の兵士たちによる破壊からヨーク・ミンスター(大聖堂)を守ったのは、議会派軍の指揮官トマス・フェアファックスだった。

他方でウェールズ北部にあるエドワード1世ゆかりのカーナフォン城は国王派が確保していた。そのカーナフォン城を議会派の軍が攻略したんだけど、直ちに国王派の軍が城を奪還したそうな。

イギリスのウェールズ北部にあるカーナフォン城と皇太子叙任の舞台

上の画像はそのカーナフォン城の様子。上の画像の下のほうに映っている円形の舞台は、プリンス・オブ・ウェールズの叙任の場所なんだそうな。今のイギリスのチャールズ皇太子も西暦1969年にこの舞台の上で叙任されたらしい。

清教徒革命の内戦の進展とイギリス国王チャールズ1世の投降

話がそれちゃったけど、再び清教徒革命の内戦のこと。西暦1645年には議会派の軍が攻勢を強め、国王派の軍は後退し始めたみたい。

西暦1645年6月には、ネイズビーの戦いで国王派軍の主力が壊滅している。その翌月下旬にはイギリス国王チャールズ1世は、ウェールズ南部にあるカーディフ城に入った。国王派が地盤としていたウェールズで兵士と資金を集めるためだった。

ところが期待はずれにも、兵士も資金も集めらなかったらしい。失望したチャールズ1世は、8月初旬にカーディフ城を出た。その直後にカーディフ城は議会派の軍が確保したらしい。

その年の9月には、イギリス国王チャールズ1世はイングランド北西部でウェールズに隣接しているチェスターに滞在していた。そのチェスター近くのロウトン・ムーアの戦いで国王派の軍が敗走したんだけど、その様子をチェスターの城壁からチャールズ1世は目撃したらしい。

翌月にはウェールズ南部にあり、イングランドとウェールズとの境界を固める位置にあるチェプストウ城が議会派の軍に降伏している。

イギリス北西部にあるチェスターのチェスター大聖堂の内部

翌年の西暦1646年3月、国王派が守り続けていたチェスターが議会派の軍に降伏した。議会派の兵士たちによって、チェスター大聖堂が荒らされた。(上の画像は、今のチェスター大聖堂の内部の様子。トマス・フェアファックスによって守られたヨーク・ミンスターとは違い、このチェスター大聖堂には古いステンド・グラスなどは残っていない。)

その2ヵ月後の5月、イギリス国王チャールズ1世がスコットランドで投降した。やがてイングランドの内戦も終息していった。

清教徒革命における第2次内戦

ところが、西暦1648年3月、イギリス国王チャールズ1世が再び戦いを始めてしまった。国王派の軍も各地で動きを示したんだ。

例えば、ウェールズ北部のカーナフォン城を国王派の軍が攻囲した。でも、議会派の援軍が城を救援している。ウェールズ南部ではチェプストウ城に国王派軍が籠城したものの議会派軍に攻囲されて降伏。カーディフ城は国王派が攻囲したものの陥落させることが出来なかった。

ウェールズ南部のペンブローク城テューダー家のヘンリー7世が生まれた城)は興味深い。元々議会派だった兵士たちが、この第2次内戦では国王派に寝返って籠城している。でも、クロムウェルが直々に攻囲を指揮し、7月には籠城軍が降伏。(ちなみに、その指揮官たちは翌年春にロンドンのコベント・ガーデンで銃殺された。)

その際のクロムウェルたちのウェールズ南部での展開の際、カーディフ近くにあるスランダフ大聖堂では、議会派の兵士たちが大聖堂でビール醸造をしたり、郵便局を作ったり、大聖堂の図書を焼いたこともあったらしい。洗礼盤を飼い葉桶に使ったこともあったそうな。

ウェールズ南部にあるケルフィリー城には、傾いた塔があるんだけど、その塔が傾いたのもクロムウェルによるものとの話も伝わっている。でも、砲撃によって塔が傾いたとの説もあるし、単に塔の地盤が沈下した結果だという説もあるんだけどね。

そんなこんなで西暦1648年3月に始まった第2次内戦でも、あちこちで戦火があがった。でも、国王派の軍は見るべき戦果もなく、半年あまりでイギリス国王チャールズ1世は議会派に降伏したんだ。

イギリス国王チャールズ1世の処刑と共和制

そんなイギリス国王チャールズ1世に対する処置は厳しかった。直ちに裁判が行われ、西暦1649年1月にはイギリス国王チャールズ1世はロンドンで斬首によって処刑されてしまった。その5月には、イングランドに共和制が成立している。

イギリスのスコットランドにあるスクーン・パレスの庭のスクーン・ストーンのレプリカ

他方で、スコットランドはチャールズ1世の処刑の10日後には、その息子のチャールズ2世をスコットランド王とした。西暦1651年1月1日には、スコットランド王チャールズ2世はスコットランド王家の故地スクーンで戴冠している。(上の画像はスコットランドのスクーン・パレスにあるスクーン・ストーンのレプリカ。)

イングランドの実権を握るクロムウェルは、そんなスコットランドの動きを許すことは出来なかった。西暦1651年9月にはチャールズ2世のスコットランド軍を敗走させ、スコットランド王チャールズ2世は海外に亡命している。(後にチャールズ2世は王政復古によって再び王となったんだけどね。)

そして西暦1653年、オリバー・クロムウェルが終身の護国卿となり、実質的にイギリスで独裁政治を行ったわけだ。

他方で、フランスの首都パリのルーブルに逃れていた王妃ヘンリエッタ・マリアは、内戦が起きるまでのチャールズ1世との生活をとっても楽しいものだったと追想している。ロンドン郊外にあるリッチモンド・パークはチャールズ1世が作った狩猟地だったんだけど、仲良しだった国王チャールズ1世と王妃が一緒にそこに出かけたりもしたかもしれないね。

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