クロムウェルの死とイギリス国王チャールズ2世の即位イギリスの清教徒革命に伴う内戦の立役者で、イギリス国王チャールズ1世を処刑し、共和制を樹立し、やがて終身護国卿として独裁を行ったオリバー・クロムウェルが西暦1658年に亡くなった。その息子のリチャード・クロムウェルが政権を担ったものの混乱を収拾することもできずに翌年には引退。イギリスの政治は混沌に陥っていた。やがて西暦1660年にはスコットランドに駐屯していた軍のモンク司令官がロンドンに戻って事態を掌握し、スチュアート家のチャールズ2世にイギリス復帰を要請。チャールズ2世の提案を議会が受諾。その年の5月にロンドンに入ったチャールズ2世がイギリス国王(イングランド王にしてスコットランド王)に即位し、ここにイギリスの王政復古となったわけだ。
チャールズ2世の父のチャールズ1世が処刑された清教徒革命は議会との対立から始まり、今度は議会の受諾によって王政復古となったわけだね。(上の画像は、中世からイギリスの議会の議場となっているロンドンのウェストミンスター宮殿。ビッグ・ベンが有名だね。)
イギリス国王チャールズ2世と周囲の人々父のイギリス国王チャールズ1世が処刑された直後の西暦1649年2月初旬、スコットランドはチャールズ2世を王に推戴している。その2年後の西暦1651年1月1日には、チャールズ2世はスコットランド王家のゆかりの地であるスクーン・パレスで戴冠式を行っているんだ。ところが、その年の9月にチャールズ2世のスコットランド軍はオリバー・クロムウェルの軍に敗れ、チャールズ2世は海外に亡命することとなった。それから 9年が経ち、チャールズ2世は晴れてロンドンでイギリス国王として即位したというわけだね。 そのイギリス国王チャールズ2世は、その即位と王政復古について貢献のあった人々には報いてもいる。例えば、スコットランド駐屯軍のモンク司令官は公爵になった。その他にも国王派だった人々には爵位などが与えられている。 清教徒革命の内戦が始まった西暦1642年に実家であるフランスの首都パリのルーブル宮殿に逃れていたチャールズ1世の王妃にしてチャールズ2世の母でもあるヘンリエッタ・マリア(フランス王女)も、王政復古の後にイギリスに戻ってきた。でも、仲の良かったご主人のチャールズ1世のいないイギリスは楽しくなかった。5年後にはフランスに帰国しちゃった。
クロムウェルの処刑西暦1661年、ロンドンのウェストミンスター寺院でチャールズ2世の戴冠式が行われた。でも、その戴冠式に先立ってウェストミンスター寺院に葬られていたオリバー・クロムウェルの遺骸が暴かれ、あらためて斬首によって処刑されたらしい。その場所が、中世から犯罪者の処刑が行われていたタイバーンの処刑場だった。
そのタイバーンという中世以来の処刑場があったのが、今のロンドンのハイド・パークの北東の角にあるマーブル・アーチのあたり(上の画像)だったそうな。(ちなみに、そのタイバーンで最後の処刑が行われたのは、西暦1783年のことだったらしい。)
王政復古の20年後王政復古から20年が経った西暦1680年、ウェールズ南部にあるチェプストウ城(下の画像)で78歳の老人 ヘンリー・マーティンが亡くなった。
その老人は、西暦1649年にイギリス国王チャールズ1世の死刑執行令状にサインした人物だった。王政復古の後にこのチェプストウ城に監禁され、20年間をここで過ごして亡くなったらしい。
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