トマス・モアの「ユートピア」「ヒツジが人間を食う」とトマス・モアはその著書「ユートピア」で書いたらしい。16世紀のイギリスで、羊毛生産のためにより多くのヒツジを飼おうとする地主たちがその土地を囲い込み、貧しい農民たちを土地から追い出してしまう様子を描いたんだそうな。(下の画像はイギリスのコッツウォルズの子ヒツジたち。)
トマス・モアは西暦1516年に発表した「ユートピア」において、人々が自由で平等で平和に暮らす理想的な社会を描いたらしい。「ユートピア」という言葉は、「どこにもない」ことを意味しているんだそうな。
イングランド王ヘンリー8世の下で出世したトマス・モアトマス・モアは西暦1478年にイギリスの首都ロンドンに生まれた。父親は法律家だったらしい。トマス・モア自身もオックスフォード大学(下の画像)などで勉強し、父と同じく法律家になったんだそうな。
やがてトマス・モアはイングランド王ヘンリー8世に仕えるようになった。自分自身も学識豊かだったヘンリー8世は、自分の宮廷に学者を迎えることが好きだったらしい。そんなヘンリー8世の下で、トマス・モアは次第に出世していったんだそうな。
イングランド王ヘンリー8世の離婚問題とカトリックとの決別ところが、トマス・モアが仕えていたイングランド王ヘンリー8世は、次第にローマ教皇やカトリックに対して敵対的な姿勢をとるようになっていったんだ。その原因となったのは、アン・ブーリンと再婚するための王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚問題であったり、ローマ教皇に従う修道院の財産だったりしたんだけど。いずれにせよ、イングランド王ヘンリー8世の下でイギリスの教会はローマ教皇やカトリックと決別し、英国国教会としてイングランド王に従属することとなったわけだ。
トマス・モアのロンドン塔での幽閉と処刑そんなイングランド王ヘンリー8世の政策は、カトリックを信じるトマス・モアの受け入れることの出来ないものだった。トーマス・モアには、ローマ教皇の権威を否定することは出来なかった。ヘンリー8世の大法官となっていたトマス・モアは、イングランド王の政策に反対したわけだ。
そんなトマス・モアは反逆罪で有罪とされ、上の画像にあるテムズ川のほとりのロンドン塔に幽閉され、西暦1535年には処刑されてしまった。
ロンドン塔に送り込まれたヘンリー8世ゆかりの人々ヘンリー8世の周囲の人々の中で、ロンドン塔に送り込まれたのは、トマス・モアだけじゃなかった。例えば、英国国教会がローマ・カトリックと決別する契機を作り出したアン・ブーリンも、西暦1533年にヘンリー8世の王妃となったものの、西暦1536年にはロンドン塔で幽閉され、処刑されている。イングランド王ヘンリー8世に仕え、キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚(婚姻の無効)、英国国教会のローマ・カトリックとの決別、修道院の解散などに多大な貢献をしたトマス・クロムウェルもロンドン塔に送り込まれ、西暦1540年に処刑されている。 ヘンリー8世の父親のヘンリー7世の代からイングランド王に仕えていたウォルゼー枢機卿は、キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚(婚姻無効)問題でローマ教皇から都合の良い回答を得られなかったことを責められ、ロンドン郊外にあるハンプトン・コート宮殿を献上し、ヨーク郊外で引退することで許された ・・・ はずだったが、後に反逆罪で逮捕され、ロンドンへ送られる途上で亡くなっている。もし生きてロンドンに到着していたら、やはり彼もロンドン塔に送り込まれていたかも ・・・。
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