ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1567年、スコットランド女王メアリー・スチュアートが退位させられた。(イギリス)


白鳥の湖 ロッホ・レーベンと
スコットランド女王メアリー・スチュアートの哀しい物語(イギリス)

イギリス北部スコットランド、その古都パースから南へ 11マイル( 18km)のあたりに、ロッホ・レーベンという湖がある。その湖には、下の画像のように白鳥が優雅に泳いでいたりする。

スコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉された城のある湖ロッホ・レーベンの白鳥たち(イギリス)

でも、このロッホ・レーベンは、スコットランド女王メアリー・スチュアートの哀しい物語の舞台の一つだった。

スコットランド女王にしてフランス王妃 メアリー・スチュアート

メアリー・スチュアートが生まれたのは西暦1542年のこと。父はスコットランド王ジェームズ5世、母はフランスの貴族ギーズ家の出身だった。

まるで幸せな王女様の物語のような人生の始まりだよね。ところが、その数日後に父が亡くなった。メアリーの二人の兄たちも既に亡くなっていた。その結果、生後たったの 6日にすぎないメアリー・スチュアートがスコットランド女王になったんだ。

でも、その頃のスコットランドは平和とは縁が無かった。強引・強欲で有名なイングランド王ヘンリー8世が、スコットランドを脅かしていた。そして西暦1548年、フランス貴族出身の王母の判断によって、まだ 6歳にもならないスコットランド女王メアリー・スチュアートはフランス王室に預けられた。(当時のフランス王室は、フランスの首都パリよりも、ロワール川近くのブロワ城などで過ごすことが多かったらしい。)

そして西暦1558年、15歳のスコットランド女王メアリー・スチュアートは、フランスの皇太子フランソワ(父はフランス王アンリ2世、母はフィレンツェ出身のカトリーヌ・ド・メディチ)とパリのノートルダム大聖堂で結婚。その翌年には皇太子がフランス王フランソワ2世として即位し、メアリー・スチュアートはスコットランド女王にしてフランス王妃ともなったわけだ。

但し、当時のフランスではプロテスタントとカトリックとの対立が次第に先鋭化しつつあった。そんな中でカトリックのリーダーとなっていたギーズ家が大きな影響力を持ち、フランス王フランソワ2世と王妃メアリー・スチュアートを強引にフランスの首都パリにあるルーブル宮殿(今の美術館)に移したらしい。といっても、メアリー・スチュアートにとってギーズ家は母の実家。まだ若いフランス王よりも、力強い母の実家の方が頼りになったかもしれないね。

未亡人となった女王メアリー・スチュアートがスコットランドに帰国

これ以上の幸福は望めないような境遇となったメアリー・スチュアート。でも、西暦1560年には夫であるフランス王フランソワ2世が亡くなってしまった。二人の結婚生活は、ほんの一年半あまりで終わってしまった。そして翌年の西暦1561年に18歳の未亡人にして女王 メアリー・スチュアートはスコットランドに帰国した。

そんな彼女の故国スコットランドにも安らぎは無かった。エリザベス1世が王位を継承したイングランドとの対立も続いていた。他方でスコットランド国内ではカトリックと宗教改革勢力との対立が激しくなっていた。スコットランドではプロテスタントのジャン・カルヴァンの思想に従う長老派 プレスビテリアンが主流になっていたんだ。

そんな中で22歳のスコットランド女王メアリー・スチュアートは従弟のダーンリー卿と西暦1565年に結婚。周囲には反対する人々も多かったけれども。ところが、その再婚相手のダーンリー卿との関係も間もなく冷めていき、メアリー・スチュアートはイタリア人の秘書であるリッチオとの関係を深めていったらしい。

スコットランド女王メアリー・スチュアートが住んでいたエディンバラのホリールード宮殿(イギリス)

そして西暦1566年、スコットランド女王メアリー・スチュアートはエディンバラにあるホリールード宮殿(上の画像)で食事をしていた。そこへ踏み込んできた貴族たちは秘書リッチオを女王の目の前で殺害したんだそうな。その三ヵ月後、彼女は男の子を出産した。ダーンリー卿の息子とされているその男の子は、後にスコットランド王ジェームズ6世となり、更にはイングランド王ジェームズ1世となる。

その時点でもスコットランド女王メアリー・スチュアートとダーンリー卿との婚姻関係は続いていた。が、西暦1567年にダーンリー卿が遺体となって発見された。その三ヵ月後には24歳のメアリーはボスウェル卿と三度目の結婚をしている。しかし、ボスウェル卿にはダーンリー卿殺害の嫌疑もかけられており、ボスウェル卿との結婚には反対者も多かったんだそうな。

スコットランド女王メアリー・スチュアートの幽閉と廃位

スコットランド女王メアリー・スチュアートとボスウェル卿との結婚から間もなく、ボスウェル卿を容認しない貴族たちが兵を起こした。敗れて貴族たちに投降した女王メアリーは、ロッホ・レーベン(このページの冒頭の白鳥の泳ぐ湖の画像)に浮かぶ島の小さな城に幽閉された。

それから間もない西暦1567年7月、ロッホ・レーベンに幽閉されているスコットランド女王メアリー・スチュアートが廃位された。その三日後には彼女の息子がスコットランド王ジェームズ6世として即位。息子は満1歳、母は24歳だった。

スコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉されていた湖ロッホ・レーベンの小さな城(イギリス)

それから一年近くが経った西暦1568年、ロッホ・レーベンの島の小城に幽閉されていた元スコットランド女王メアリー・スチュアートが島を脱出した。(上の画像はその島を離れる船から撮影したロッホ・レーベンの島と城と船着場。)

自由を回復したメアリー・スチュアートは、数千人の兵を集め、彼女を幽閉した貴族たちと戦ったものの敗北。メアリーは従妹のエリザベス1世を頼ってイングランドへ逃れていった。

元スコットランド女王メアリー・スチュアートの処刑

イングランドへ逃れてきた25歳の元スコットランド女王メアリー・スチュアートは、テムズ川のほとりにある悪名高いロンドン塔に幽閉されるわけでもなく、比較的に自由に暮らすことを許されていたんだそうな。

他方で、レパントの海戦で勝利を得たドン・フアン・デ・アウストリア(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の庶子でスペイン王フェリペ2世の異母弟)は、総督として着任したスペイン領ネーデルラント(今のオランダベルギー)でイングランドの支援を受けるプロテスタントと戦っていた。彼はメアリー・スチュアートと結婚し、彼女をイングランドの女王とし、ネーデルラントのプロテスタントを孤立させようと構想したらしい。その実現の前に彼は亡くなってしまったけどね。

イングランド王位にはエリザベス1世よりも自分が血統的にもふさわしいと考えていたメアリーは、エリザベス1世の廃位や暗殺の計画に何度も関わったらしい。その挙句、西暦1587年に元スコットランド女王メアリー・スチュアートは処刑された。44歳だった。

それから16年後の西暦1603年、彼女の息子のスコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として即位。スコットランドとイングランドの両方の王となったジェームズは、西暦1612年に母のメアリー・スチュアートの遺体をイギリス王家の墓があるロンドンウェストミンスター寺院に移したらしい。数々の悲劇の主人公だったメアリー・スチュアートは、ここでようやく安住の地を得たということだろうか。

ちなみに、メアリー・スチュアートの祖母は、テューダー家のイングランド王ヘンリー7世の王女だった。つまり、メアリー・スチュアートはテューダー家の子孫になる。その関係でイングランド女王エリザベス1世が亡くなった後、メアリー・スチュアートの子供たちがイングランド王位を継承していくわけだ。

でも、スチュアート家のイングランド王たちもメアリー・スチュアートと同じく宗教には苦労しているよね。ガイ・フォークスたちの火薬陰謀事件カトリック陰謀事件名誉革命で追われたジェームズ2世とかね。

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