ハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世西暦1556年、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)が、オーストリアを除く領地とスペイン王位を息子のフェリペ2世に譲った。オーストリアと皇帝位はカルロス1世(カール5世)の弟のフェルディナント1世に継承している。
28歳という若いスペイン王フェリペ2世は、スペインの他にネーデルラント(今のベルギーやオランダ)、ミラノ、シシリア、ナポリなどを継承している。上の画像は、彼が継承したナポリの国立考古学博物館に展示されているコインに描かれたスペイン王フェリペ2世の横顔なんだ。
スペイン王フェリペ2世がマドリッドを首都と定めたフェリペ2世は西暦1543年にポルトガルの王女と結婚していた。でも、王女は2年後に亡くなっているんだ。そして西暦1554年にはイングランドの女王メアリー1世(ヘンリー8世の娘でエリザベス1世の姉)と結婚し、ロンドンに住んでいた。スペイン王に即位の際にロンドンからスペインに帰国したらしい。その後、イングランド女王メアリー1世は西暦1558年に亡くなっている。その後、スペイン王フェリペ2世は、西暦1559年に三度目の結婚をしている。相手はフランス王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチの娘だった。その2年後の西暦1561年、フェリペ2世はスペインの首都をマドリッドに定めた。スペインの中央に位置しているというのがマドリッドを選んだ理由だった。
彼はマドリッドの古いアルカサル(城館)を改装させている。上の画像は現在のマドリッドの王宮なんだけど、かつてのアルカサルはこの場所にあったんだそうな。
ちなみに、フェリペ2世の父のカルロス1世は王家の墓所を、スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダ(あの世界遺産アルハンブラ宮殿がある街)の王室礼拝堂にしようと考えていたらしい。そこにはカルロス1世の母の女王フアナやその両親であるカトリック両王も埋葬されていた。でも、フェリペ2世は王家の墓所をマドリッドからも近いエル・エスコリアルに移したんだそうな。カルロス1世もそこに埋葬されている。
スペインの財政破綻とフェリペ2世西暦2012年のスペインも財政が危機に瀕しており、ヨーロッパの新しい通貨ユーロの信認を揺るがせているんだけど、フェリペ2世が王位についた頃のスペインも財政が破綻していた。彼の即位の翌年にはスペイン政府の支払を停止する措置を採ったんだけど、彼の在位中に計4回も支払い停止を余儀なくされている。他方で、フェリペ2世の3人目の奥さんとなったフランスの王女は、西暦1568年に亡くなっている。というわけで、彼はその年に四度目の結婚をしている。今度の奥さんは、オーストリアのハプスブルク家の皇女だった。
4人目の奥さんとなったオーストリアの皇女の為に、スペインのフェリペ2世はセゴビアのアルカサルにオーストリア風の尖塔を加えたりしたらしい。上の画像がそのセゴビアのアルカサルなんだけど、ディズニーの白雪姫のお城のモデルにもなった城館なんだそうな。(ついでながら、セゴビアには古代ローマ帝国時代の水道橋もある。フランス南部プロヴァンス地方のポン・デュ・ガールよりは小さいけどね。)
スペイン王フェリペ2世の苦闘スペインの財政破綻に加えて、奥さんやお子さんを次々と亡くしたフェリペ2世なんだけど、静かな暮らしに逃げ込むことは許されなかった。当時のヨーロッパの中でも先進的な産業が栄えていたネーデルラントでは、ジャン・カルヴァンの教えに従うプロテスタントが勢いを増していた。断固としてカトリックを守ろうとするスペイン王フェリペ2世にとって、自分の領地であるネーデルラントでのプロテスタントの信仰は認めることはできない。ネーデルラントで異端審問を行い、プロテスタントを抑え込もうとした。でも、ネーデルラントの人々はそんなスペインの支配に対して反乱を起こしたんだ。 ネーデルラント南部(今のベルギー)はなんとかカトリック陣営に引き戻すことが出来た。でも、頑強に戦いを続けたネーデルラント北部(今のオランダ)は西暦1581年には事実上の独立を宣言している。(三十年戦争を終息させた西暦1648年のウェストファリア条約において正式にオランダの独立が認められた。)
ついでながら、西暦1605年に出版されたセルヴァンテスの小説「ドン・キホーテ」の前編の中では、スペインの騎士のつもりのドン・キホーテが風車に突撃して敗れるというシーンがある。これは時代遅れのスペインから新興国オランダが独立していくことを表現しているという解釈もあるんだそうな。(上の画像はオランダで見た風車。)
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