ノストラダムスがフランス南部プロヴァンス地方で生まれた西暦1503年、後にノストラダムスとして有名になる男の子が、フランス南部プロヴァンス地方の街サン・レミ・ド・プロヴァンスで生まれた。その男の子の本名は、ミシェル・ド・ノートルダムといったらしい。(ノートルダムをラテン語風に書いてノストラダムスとなった。)
上の画像は、サン・レミ・ド・プロヴァンスの街の郊外にあるグラヌムの遺跡に残る古代ローマ帝国時代の凱旋門と死者記念碑。左側に見える死者記念碑はノストラダムスの詩にしばしば登場しているらしい。
医者になったノストラダムス西暦1518年にはノストラダムスはアヴィニョンの大学の学生になっている。でも、ペストが流行し、アヴィニョンの大学の講義は休講が続き、ノストラダムスは各地を放浪したらしい。(下の画像はアヴィニョンの教皇宮殿のテラスから眺めた街並み。)
ちなみに、ノストラダムスの父方の先祖はアヴィニョンで商売をしていた。彼の父もアヴィニョンで商売をしていたんだけど、結婚相手が住んでいたサン・レミ・ド・プロヴァンスに移ったらしい。
「ノストラダムスの大予言」の出版その後、サロン・ド・プロヴァンスの街に落ち着いたノストラダムスは、やがて予言者として有名になっていった。そして「ノストラダムスの大予言」の初版が出版されたのが西暦1555年のことだった。
そんなこんなで評判の高まったノストラダムスをフランスの首都パリに呼び寄せたのがフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチだった。(上の画像は、パリ郊外のサン・ドニ大聖堂にあるアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチの像。)
フランス王の顧問とされたノストラダムスその後、フランス王アンリ2世が亡くなり、その長男のフランソワ2世もフランス王に即位の翌年に亡くなり、次男のシャルル9世がフランス王となった。そのフランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチは西暦1564年にプロヴァンス地方を訪れ、ノストラダムスに会っている。更にはアルルの街にノストラダムスを呼び出し、彼を王の顧問としたんだそうな。(下の画像はアルルの街の円形闘技場の上から眺めた街並みとローヌ川の風景。このアルルは画家ゴッホが好んだ街でもある。)
医者にして名高い予言者だったノストラダムスは、西暦1566年に亡くなっている。でも、「ノストラダムスの大予言」を含め、彼の多くの著作は、今でも世界中の人々にで読まれ、多くの人々が解釈し、様々な議論を巻き起こし続けているね。そうなることをノストラダムスは知っていたかな。
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