イタリアのトスカナ地方で自治都市として発展した街シエナイタリアのトスカナ地方の街シエナは、西暦1167年に司教による統治を脱し、独立した自治都市として発展し始めた。
そんなシエナの人々の暮らしの中心が、上の画像にあるカンポ広場だった。この広場では市場が営まれ、市の条例が公布され、犯罪者の処刑が行われ、・・・その他にも様々なイヴェントの舞台だったらしい。
トスカナを舞台にフィレンツェと争ったシエナ金融や羊毛などの取引を中心に成長を続けたシエナは、やがてトスカナ地方を舞台にフィレンツェとの対立していくことになる。そんな二つの街の間の最初の戦いは西暦1129年のことだった。その後も二つの街の間の戦いは繰り返されるんだけど、西暦1230年にはピサと同盟したフィレンツェ軍がシエナを占領している。西暦1260年にはシエナの西 約5kmほどのところにあるモンタペルティにおいてシエナ軍がフィレンツェ軍を撃ち破った。ところが、ギベリン(皇帝派)として戦ったシエナをローマの教皇庁が破門し、教皇庁の金融業務はゲルフ(教皇派)のフィレンツェに委ねられることになってしまった。 続いて西暦1269年にもコッレ・ヴァル・デルサにおいて二つの街は戦いを交えている。この戦いにおいてはフィレンツェが雪辱を果たしたらしい。
そんなこんなでトスカナ地方の覇権をかけてフィレンツェとの戦いを繰り返していたシエナだったけれども、13世紀末から14世紀前半にかけてシエナは全盛期にあったらしい。その頃のシエナに建設されたのが、西暦1305年に完成したプブリコ宮殿(上の画像)だった。
停滞するシエナと成長するフィレンツェところが、西暦1347年にフランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユに上陸した黒死病(ペスト)は、その翌年にはシエナの人口の半分を奪ってしまった。その打撃によって経済も衰退したシエナは、下の画像にある大聖堂(ドゥオモ)の拡張工事も中断せざるを得なくなった。(その拡張工事が再開されることはなかった。)
他方のフィレンツェは、シエナと同様に黒死病(ペスト)によって低迷していた中世の塔の街サン・ジミニャーノを西暦1353年に従属させ、シエナに対する前線基地としてしまった。更に西暦1404年にはフィレンツェはかつての同盟国ピサを征服し、海への出口を確保すると同時にトスカナ地方での勢力を大きく拡大したんだ。
スペインと組んでシエナを征服したフィレンツェその後、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)はスペイン軍部隊をシエナに駐屯させている。そのスペイン軍部隊を皇帝の宿敵であるフランスと組んだシエナが追放したのが西暦1552年のこと。対してスペイン王カルロス1世はメディチ家のフィレンツェ大公コシモ1世の傭兵隊長ジャン・ジャコモ・メディチ指揮下の軍にシエナを攻撃させた。守るシエナの部隊にはメディチ家に敵対していたストロッツィ家の人々も参加していた。 18ヶ月にわたる攻囲の末、西暦1555年にシエナは開城し、征服されている。カルロス1世の後継者となったスペイン王フェリペ2世は、シエナをフィレンツェ(後のトスカナ大公国)に譲っている。 シエナの一部の人々はモンタルチーノ(イタリアを代表する赤ワイン「キャンティ」の生産地域の中にある)に拠って抵抗を続けたらしい。でも、その抵抗も西暦1559年には終息している。こうしてシエナはフィレンツェの支配下に入ってしまった。 そんなわけでフィレンツェの支配下に落ちたシエナを街を出て行った名家がある。その一つがボルゲーゼ家だった。彼らは一族を挙げてローマへと移って行った。17世紀になり、枢機卿となったボルゲーゼ家の一員がシピオーネ・ボルゲーゼだった。彼こそはまだ年若いジャン・ロレンツォ・ベルニーニの才能を認め、その支援者となった。 やがてベルニーニはイタリアのバロック美術を代表する芸術家の一人となる。ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ広場、サン・ピエトロ大聖堂(下の画像)の中にあるブロンズのバルダッキーノ(天蓋)、聖ペテロの司教座などを残したんだ。
その他にもベルニーニがローマに残した作品は多いよね。「風が吹けば桶屋が ・・・ 」風に言えば、フィレンツェがシエナを征服したおかげでボルゲーゼ家がローマに移り、若きベルニーニは支援者を見出し、ローマはバロック美術に飾られ、バロック美術は17世紀のイタリア、更にはヨーロッパを席巻したというわけだね。
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