マルタ島・ゴゾ島を襲った海賊ドラグート海賊ドラグート(あるいはトゥルグト・レイス)は地中海各地を荒らしまわったことで悪名高く、しかしオスマン・トルコ艦隊の指揮官として名高い人物でもあった。彼は1485年頃にエーゲ海の村でギリシャ人の子供として生まれ、幼い頃に捕らえられてイスラム教に改宗させられたと言われている。やがて彼はオスマン・トルコの兵士となり、更には船乗りとして頭角を現し、後には名高い海賊バルバロッサの艦隊に加わり、ヴェネツィアの艦船、ナポリ近辺やクレタ島などの襲撃に参加している。 ところが西暦1544年、そんな海賊ドラグートが捕虜となり、ジェノヴァのガレー船の奴隷とされたことがあった。ところが親分の海賊バルバロッサが艦隊を以てジェノヴァを包囲し、交渉の上で金銭と引き換えにドラグートを釈放させたこともあった。 そして西暦1546年、海賊バルバロッサが亡くなり、ドラグートはその後継者としてオスマン・トルコの地中海艦隊の最高司令官となっている。 それから5年後の西暦1551年、聖ヨハネ騎士団の本拠となっていたマルタ島を海賊ドラグートの艦隊が襲っている。聖アンジェロ城砦のあるヴィットリオーザ(旧名ビルグ)や隣のセングレア(旧名リースラ)などを包囲した後、オスマン・トルコ軍部隊はマルタ島の古都イムディナを攻撃している。
海賊ドラグートの率いるオスマン・トルコ艦隊は1万人の兵力を上陸させていた。しかし、聖ヨハネ騎士団によって強化されていたマルタ島の古都イムディナを攻略するには十分ではないと判断し、攻撃を中断している。(上の画像は現在の古都イムディナに見る城壁。)
ソレントを襲った海賊ドラグートの艦隊西暦1552年、フランス王アンリ2世と結んだ条約に基づいて、オスマン・トルコのスレイマン大帝が艦隊をイタリアに派遣した。その司令官に任命されたのが海賊ドラグートだった。
ところが、定められた合流地点にフランス艦隊は姿を見せなかった。というわけでオスマン・トルコ艦隊を率いる海賊ドラグートはサルディニア島やコルシカ島、更にはナポリ湾付近の各地を荒らしまわっている。(上の画像は彼に襲われたソレントの海辺の様子。)
海賊ドラグートの艦隊がアマルフィを襲撃西暦1556年にはスレイマン大帝は海賊ドラグートをトリポリの知事に任命している。その地において彼は城壁を強化し、砲台を築いたりしている。他方で彼はヴェネツィアの観戦を捕らえたり、イタリア各地を襲ったりもしているんだ。
西暦1558年には彼の艦隊はイタリア南部で活動し、上の画像にあるアマルフィにも上陸している。更にはスペイン沿岸やミノルカ島にまで活動範囲を広げていた。
マルタ島で戦死した海賊ドラグート西暦1560年にはハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世が派遣した艦隊と戦い(ジェルバの戦い)、勝利を得ている。そして西暦1565年、オスマン・トルコのスレイマン大帝の命を受け、聖ヨハネ騎士団からマルタ島を奪い取る為の戦い(グレート・シージ)に参加した。名高い海賊ドラグートも80歳近い年齢になっていた。
オスマン・トルコ軍の最初の攻略目標である聖エルモ城砦に砲撃を行う為、海賊ドラグートはティニエ岬の先端に大砲を並べた。その場所は今ではドラグート・ポイントと呼ばれている。(上の画像は聖エルモ城砦から眺めたティニエ岬のドラグート・ポイント)。
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