本拠地をマルタ島に得た聖ヨハネ騎士団西暦1522年にオスマン・トルコの侵攻を受け、エーゲ海に浮かぶ本拠地ロードス島(現ギリシャ領)を失った聖ヨハネ騎士団は、次なる本拠地を求めていた。そのあたりの事情については、塩野七生さんの「ロードス島攻防記」に詳しいよね。他方でハプスブルク家の皇帝カール5世はオスマン・トルコと戦う為の兵力を求めていた。しかも、西暦1529年にはオスマン・トルコによって本拠のウィーンを包囲されるという事態に至っている。そんなカール5世にとって地中海でのガレー船によるイスラム教徒との戦いで名高い聖ヨハネ騎士団は魅力的な存在だよね。 というわけで、両者の利害が一致し、西暦1530年に皇帝カール5世は地中海の十字路とも呼ばれるマルタ島を聖ヨハネ騎士団に与えたわけだ。ちなみに、その見返りとし毎年一羽の鷹を献上することが条件だった。
新しい本拠地マルタ島を得た聖ヨハネ騎士団は、島の良港であるグランド・ハーバーに面した聖アンジェロ城砦を騎士団長の座所と定め、その守りを強化している。(上の画像は現在の首都ヴァレッテから眺めた今の聖アンジェロ城砦の様子。)
マルタ島の守りを固めた聖ヨハネ騎士団マルタ島の統治の中心となった聖アンジェロ城砦を補強・拡張した聖ヨハネ騎士団は、その他にもマルタ島各地の要衝の守りを強化している。
例えば、マルタ島の良港グランド・ハーバーの入口を約する聖エルモ城砦については、西暦1533年に補強されている。(上の画像は聖アンジェロ城砦から眺めた聖エルモ城砦の様子。聖エルモ城砦はヴァレッタのあるシベラス半島の先端に位置している。)
聖ヨハネ騎士団のガレー船こうして新しい本拠地マルタ島に落ち着いた聖ヨハネ騎士団は、地中海の十字路とも言われる地の利を活かし、ガレー船を操ってオスマン・トルコをはじめとするイスラム教徒の艦船を攻撃している。そんな聖ヨハネ騎士団のガレー船の船長たちの宿舎が下の画像なんだけど、画像の左端には聖アンジェロ城砦も見えている。騎士団が本拠の中枢としたヴィットリオーザ(旧名ビルグ)の街の一角にある。
聖ヨハネ騎士団がマルタ島に本拠を移して30年以上が経った頃のことなんだけど、西暦1564年に騎士団のガレー船がオスマン・トルコの何隻もの船を捕獲したことがあった。その乗客の中にはオスマン・トルコのスレイマン大帝の乳母や高官たちがいたし、あるいはその財宝などを載せていた船もあった。その結果、オスマン・トルコの大軍が西暦1565年に侵攻したグレート・シージを招いたという説もあるね。
マルタ島の古都イムディナの城壁上に書いたように聖ヨハネ騎士団はマルタ島のあちこちの守りを強化したんだけど、その中には古都イムディナの城壁も含まれていた。(下の画像は今の古都イムディナの城壁の様子。)
その結果、名高い海賊ドラグート(あるいはトゥルグト・レイス)などが参加した西暦1551年のオスマン・トルコ軍のマルタ島侵攻において、古都イムディナを守りぬくことができたわけだね。
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