ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1529年、スレイマン大帝指揮下のオスマン・トルコ軍が、ハプスブルク家のウィーンを包囲した。


スレイマン大帝のオスマン・トルコ軍が
イスタンブールを出発

西暦1529年5月10日、オスマン・トルコの首都イスタンブールを、スレイマン大帝指揮下の数万の大軍が出発した。大雨による河川の増水により、進軍の速度は遅く、ベオグラードに到着したときには7月になっていた。

その後、ハプスブルク家支配下のブダペスト(現在のハンガリーの首都)を6日間で攻略し、オスマン・トルコ軍はオーストリアへと進撃を続けた。

スレイマン大帝のオスマン・トルコ軍による
第一次ウィーン包囲

西暦1529年9月27日、スレイマン大帝指揮下のオスマン・トルコ軍がウィーンに到着。一説によれば、その兵力は12万を越えていたらしい。(下の画像は、オーストリアの首都ウィーンの現在の様子。)

観覧車から眺めたウィーンの眺め(オーストリア)

オスマン・トルコ軍の巨砲は悪天候のために到着していなかったが、それでも大砲300門がウィーンをにらんでいた。対するハプスブルク軍の兵力は2万。大砲は72門にすぎなかった。兵力において守備側の劣勢は覆い隠しようもなかった。しかし、オスマン・トルコ軍の到着がおくれたことにより、守備側は万全の準備を整えていた。

オスマン・トルコ軍は砲撃に続いて突撃を繰り返した。しかし、十分に補強されたウィーンの城壁を突破することは出来なかった。またウィーン市内には十分な弾薬や食料が準備されていた。対するオスマン・トルコ軍の側では、弾薬と食料が不足し始めた。加えて、急激に気温が低下し、雪まで降り始めたらしい。

オスマン・トルコ軍の総攻撃と退却

10月14日、スレイマン大帝がオスマン・トルコ軍部隊に最後の総攻撃を命じた。しかし、ハプスブルク家の軍とウィーン市民たちは、ウィーンを守り続けた。スレイマン大帝は攻撃続行を諦め、オスマン・トルコ軍に退却を命じた。

ハプスブルク家あるいはキリスト教ヨーロッパは、悪天候によって救われたのかもしれないね。(下の画像はウィーンのシンボルとも言われる聖シュテファン大聖堂。最も古い部分は13世紀に遡ると言うから、第一次ウィーン包囲の際には砲撃を受けたかもしれないね。)

ウィーンのシンボルとも言われる聖シュテファン大聖堂(オーストリア)

7年前の1522年に聖ヨハネ騎士団の本拠ロードス島(現ギリシャ)を攻略したオスマン・トルコにとっても、さすがにハプスブルク家の都ウィーンを攻略するのは難しかったんだね。

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