オスマン・トルコによるハンガリー支配の終わり西暦1683年、オスマン・トルコによる第二次ウィーン包囲において、オスマン・トルコの支配下にあったハンガリーの新教徒貴族たちは、カトリックの擁護者ハプスブルク家の都ウィーンの包囲に参加したんだそうな。しかし、ローマのヴァティカン美術館・博物館のソビエスキ王の間の絵にも描かれているポーランド王ヤン(3世)・ソビエスキの救援によってオスマン・トルコ軍のウィーン包囲は失敗に終わり、オスマン・トルコ軍はウィーンから兵を引いた。 西暦1686年、オスマン・トルコ軍による第二次ウィーン包囲を撃ち破った勢いに乗じて攻撃に転じたハプスブルク家の軍は、ハンガリーの都ブダからオスマン・トルコ軍を駆逐した。更にハプスブルク家の軍はオスマン・トルコの支配下にあったハンガリーの大部分を占領。(上の画像は、ブダの丘から眺めた現在のブダペストの様子。) ハプスブルク家によるハンガリー支配西暦1687年、ハンガリー国会がハプスブルク家による王位世襲を承認した。西暦1690年にはオスマン・トルコが反攻してきたが失敗に終わり、その後の西暦1699年のカルロヴィッツの和約によりハンガリーはハプスブルク領として確定したというわけだ。
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