スペインのハプスブルク王家の断絶とフェリペ5世の即位スペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)の息子がフェリペ2世、その息子がフェリペ3世、その息子はフェリペ4世、その息子がカルロス2世とハプスブルク家のスペイン王が代々継承してきたわけだ。ところが、カルロス2世には継承者たる息子がいなかった。弟もいなかった。そんなスペイン王カルロス2世が西暦1700年に亡くなった。カルロス2世はフランスのアンジュー公フィリップを次のスペイン王に定めていた。そのアンジュー公フィリップは、フランス王ルイ14世太陽王の孫であり、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で生まれたブルボン家の一人だった。でも、アンジュー公フィリップの祖母(ルイ14世の王妃)はカルロス2世の姉だったからね。
上の画像はスペインの首都マドリッドの王宮とその前に立つフェリペ4世の騎馬像なんだ。このフェリペ4世が亡くなったカルロス2世の父であり、アンジュー公フィリップの曽祖父ということになる。祖母を通じてスペイン王位の継承権を持っていたアンジュー公は、カルロス2世の指名もあり、西暦1700年にスペイン王フェリペ5世に即位したんだ。
スペイン継承戦争の勃発フランス王ルイ14世太陽王はそれまでもアルザス地方の街ストラスブールを占領したり、周辺諸国に攻め込んでアウクスブルク同盟戦争を始めたりしており、各国の警戒の的だった。ところが、そのルイ14世太陽王がフランスのみならず、スペインまで手にしたらどうなるのか。そんなフランス王ルイ14世太陽王の好きにさせない為に、アンジュー公フィリップのスペイン王位継承の条件として、フランス王位継承権を放棄することとなっていた。ところが、ルイ14世はスペイン王フェリペ5世はフランス王位継承権を放棄しないとしたんだ。
当然ながら、周辺諸国とフランス・スペインとの対立は激化するよね。しかも、何度もフランスと戦っているオランダのすぐ南にあるスペイン領ネーデルラント(今のベルギー)にフランス軍を展開した。となれば、オランダ総督にして名誉革命によってイングランド王となったウィリアム3世も戦うしかなくなるよね。(上の画像はベルギーの首都ブリュッセルの広場グラン・プラスの夜景。)
苦戦するフランス・スペインスペイン継承戦争の戦いは、あちこちに広がっていた。イタリア、ドイツ、ネーデルラント、フランス南部、スペイン周辺、そしてアメリカなどの植民地。しかも公国から王国への昇格を許されたプロイセンや、長くフランスと戦ってきたサヴォワ公家、スペインの隣のポルトガルなども参戦し、フランス・スペインにとって次第に不利な状況となっていった。
西暦1704年には、スペイン南東端にあるジブラルタルもイギリスによって占領されている。(上の画像は船から眺めたジブラルタルの岩山。知人に戴いた画像なんだ。ちなみに、ジブラルタルは今もイギリス領のまま。スペインは返還要求を続けているけど。)
ついでながら、上に書いたジブラルタルから上陸したイスラム教徒が西ゴート王国を滅ぼし、西暦1492年に古都グラナダ(世界遺産アルハンブラ宮殿で名高い)が陥落するまでスペインのレコンキスタ(国土回復運動)が続いたわけだね。
でも、考えようによっては、今もスペインの国土回復運動は続いていると言えなくもない。但し、相手はイスラム教徒ではなくてイギリスなんだ。ジブラルタルは今もイギリス領だからね。
スペイン継承戦争の終息とユトレヒト条約イギリス軍に占領されたジブラルタルのみならず、その他の国内各地での戦いでもスペインは苦しんでいた。西暦1705年にはイギリス軍やオーストリア軍がカタルーニャやヴァレンシアに駐屯している。しかも、首都のマドリッドでは、攻略したり奪還したりが繰り返されていた。でも、長引く戦いに各国は次第に疲れてきた。オーストリアのハプスブルク家の皇帝レオポルト1世が亡くなり、スペイン王位を要求していたカール大公が皇帝カール6世となった為にスペイン王位の要求を諦めている。他方でスペイン王となったブルボン家のフェリペ5世がフランス王位継承権を放棄した。 そんなこんなで和平の機運が高まり、西暦1713年にはユトレヒト条約が締結され、その翌年にはラシュタット条約が結ばれ、長く続いたスペイン継承戦争が終わったわけだ。 但し、イギリスやオーストリアなどが撤兵した後も、カタルーニャ地方の街バルセロナはスペイン王に対して抵抗を続けていた。そんなバルセロナがスペイン王の軍によって攻略されたのは西暦1714年のことだった。ちなみに、バルセロナ防衛の為に戦死した兵士たちは、バルセロナの守護聖人たる聖エウラリアゆかりの海の聖母マリア教会に埋葬されたんだそうな。 ちなみに、西暦2013年9月11日17時14分、カタルーニャ州の40万人の人々が参加して手をつなぎ、全長 400kmにわたる人間の鎖を作った。299年前にバルセロナが攻略されたことを忘れない為にね。 そんなカタルーニャが注目していたのが、西暦2014年09月18日に行われたイギリス北部スコットランドの独立を問う住民投票だった。でも、その結果は独立反対。でも、カタルーニャ自治州は諦めていない。同年11月09日は自らの独立をめぐる住民投票を行うらしい。但し、スペイン中央政府はそれを認めていない。はてさて、結末はどうなるんだろうか。
その後、スペインの憲法裁判所は、カタルーニャ州の実施しようとしている独立を問う住民投票は違憲であると差し止めの判断を下した。その結果、カタールーニャで11月9日に実施されたのは非公式の住民投票となったんだ。それでも4割ほどの住民が投票し、8割が独立を支持したらしい。
上の画像はバルセロナの大聖堂の前でカタルーニャ独特のサルダーナを踊る人々の様子なんだ。このサルダーナは、スペイン中央のカスティリアあるいは首都マドリッドに対して反感を持つカタルーニャ地方の民族主義の象徴でもあるらしい。そんなわけで、スペイン内戦に勝利を得た独裁者フランコ総統の時代には、サルダーナが禁止されていたんだそうな。
西暦2014年6月のことなんだけど、スペイン国王フアン・カルロス1世が退位し、その息子がフェリペ6世として即位している。でも、国民の中には王制廃止を求めてデモを行った人々もいたんだ。カタルーニャ州の独立問題に加えて、スペインの王制の維持についてもまだまだ今後の動きがあるのかもしれないね。
スペイン継承戦争とナポリちょいとおまけのお話。ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世の祖父のアラゴン王フェルナンド2世の時から、イタリア南部の街ナポリはスペインの支配下にあった。でも、スペイン継承戦争の結果、ナポリはミラノなどと共にオーストリアのハプスブルク家の手に移ってしまった。それを奪い返したのがスペイン王となったフェリペ5世の息子のカルロスだった。彼は西暦1734年にナポリを占領し、その翌年にはナポリ王カルロ7世として即位している。その後、西暦1759年には兄の死によってスペイン王カルロス3世となったんだ。 彼は母親からファルネーゼ家のコレクションを継承し、それが今のナポリ国立考古学博物館の展示品の中心となっている。更には彼の頃に発掘されたポンペイからの出土品(特筆すべきはアレクサンダー大王のモザイク画)もその博物館で見ることが出来るんだ。 更にはスペイン王となったカルロスはゴヤをお抱えの画家としている。息子のスペイン王カルロス4世もゴヤを宮廷画家としたんだけど、おかげでマドリッドのプラド美術館にはスペインを代表する画家ゴヤの作品が多く展示されているわけだ。
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