今のスペイン南部のジブラルタルに上陸したイスラム教徒西暦661年に成立したウマイヤ朝の下で、イスラム教徒たちは急速に勢力を広げていた。一部の勢力は西に向かい、西暦707年には北アフリカを支配下に入れたんだそうな。ところがイスラム教徒の勢いはそこでは止まらない。西暦710年にはアフリカ北部のイスラム教徒が数百人の偵察部隊を今のスペイン南部に上陸させたらしい。その偵察部隊が持ち帰った情報に基づき、翌年の西暦711年春には数千人の遠征舞台が海を越え、今のスペイン南部アンダルシア地方にあるジブラルタルの岩山に橋頭堡を築いている。 海を渡ってイベリア半島に上陸したイスラム教徒の遠征部隊を指揮していたのは、ターリク・ブン・ジヤードだった。その名前にちなんで、最初の橋頭堡を築いた岩山はターリクの岩と呼ばれた。アラビア語では「ジャバル・アル・ターリク」となるらしい。やがてその岩山は「ジブラルタル」と呼ばれるようになったわけだ。
上の画像が、そのターリクの岩、ジブラルタルの岩山なんだ。地中海のクルーズ船から撮影したもの。知人から戴いた画像なんだけどね。
イスラム教徒に滅ぼされた西ゴート王国北アフリカから海を渡って来たイスラム教徒がジブラルタルに橋頭堡を築いた頃、イベリア半島の大部分を支配していた西ゴート王国の王ロドリーゴは、今のスペイン北部でバスク人たちと戦っていたらしい。でも、イスラム教徒の遠征部隊の上陸を知り、急いでアンダルシアに向かった。西ゴート王国軍とイスラム教徒軍がスペイン南部で激突したのは西暦711年7月のことだった。ところが、西ゴート王国軍は内部に対立を抱えていた。一部の兵による裏切りもあったと言われる。ロドリーゴ王は戦死し、西ゴート王国軍は大敗を喫したんだそうな。
イスラム教徒軍の本体は北上し、西ゴート王国の古都トレドに向かった。その西ゴート王国の首都は、抵抗することもなく開城したらしい。その後もイスラム教徒に対する抵抗を続ける西ゴート王国の貴族や都市も見られたが、王国は滅ぼされたと言えるみたい。
イスラム教徒による古都セビリアの征服西暦712年、遠征部隊の指揮官であるターリク・ブン・ジヤードの上司にあたるウマイヤ朝の北アフリカ総督ムーサー・ブン・ヌサイルが、2万人近い大軍を率いてスペインに上陸した。総督は古都トレドに向かう途中で古都セビリアを征服している。イベリア半島に進出したウマイヤ朝のイスラム教徒たちは、当面の本拠をこのセビリアに置いたらしい。彼らはこの街を「イシュビリャ」と呼んだらしい。その名前がやがて「セビリア」となるわけだ。
上の画像は古都セビリアにある世界遺産ヒラルダの塔から眺めたセビリア大聖堂のナランハ(オレンジ)の庭の様子。この大聖堂はかつてのイスラム教徒のモスクの場所に建てられたんだけど、ナランハ(オレンジ)の庭は元々はそのモスクの庭だったそうな。
イベリア半島のイスラム教徒の中心となった古都コルドバ他方、ジブラルタルに名前を残したターリクの副官ムギースは、遠征部隊の別働隊を率いて古都コルドバを攻めた。コルドバの街の大部分はあっさりと降伏したけれども、西ゴート王国の貴族の中には教会に籠城してイスラム教徒軍に抵抗を続けた人々もいたらしい。その抵抗も数ヶ月で終わったけれども ・・・ 。
イベリア半島に進出したイスラム教徒軍は最初の本拠を古都セビリアに置いたけれども、西暦718年にはイベリア半島の2代目の総督が総督府を古都コルドバに移している。以後、西暦756年に成立した後ウマイヤ朝も本拠をコルドバに置いていたんだ。(上の画像は古都コルドバのメスキータの中に残る貴賓席の入り口の装飾。中世イスラム文化の華麗さの残り香ということかな。)
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