敗北から立ち直ったブルグント王国ジュヴレ・シャンベルタンなどフランスを代表する名高いワイン産地であるブルゴーニュ地方。その名前の元となっているのは古代から中世にかけてガリア(フランス)に侵入してきたゲルマン系のブルグント王国だよね。そのブルグント王国のゴンドバルド王は、5世紀末にクローヴィス王のフランク王国と戦って敗れたんだ。でも、ゴンドバルド王はブルグント王国の本拠地をアヴィニョンに移し、王国を立て直したらしい。
立ち直ったブルグント王国は、今のフランス南部プロヴァンス地方にあるロワール川流域をも支配し、歴史ある港町マルセイユも領土に含んでいたんだそうな。(上の画像はマルセイユの風景。)
フランク王国・ブルグント王国 vs 西ゴート王国戦いに敗れながらもブルグント王国を立て直したゴンドバルド王を評価したフランク王国の王クローヴィスは、対決姿勢を転じてブルグント王国と協調し、共同して西ゴート王国に対することとしたらしい。昨日の敵は今日の友というわけだね。当時のガリア(今のフランス)では、北にフランク王国、東南にブルグント王国、そして西南に西ゴート王国が鼎立するというガリア版三国志の状態だった。その西ゴート王国は、西ローマ帝国崩壊の前からフランス南西部に勢力を築いていたんだ。
そんな西ゴート王国は、西暦473年にはプロヴァンス地方の街ニーム(あのポン・デュ・ガール水道橋が水を供給していた街)も占領していた。上の画像はそのニームの街に残る古代ローマ帝国時代の円形闘技場。ずいぶんと立派でしょ。といっても、イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノに残るコロッセオ(円形闘技場)ほどではないんだけどね。
敗れた西ゴート王国の新しい本拠地トレドそして西暦507年、フランク王国とブルグント王国の連合軍が西ゴート王国軍を撃ち破った。敗れた西ゴート王国は、ガリアからイベリア半島に向かい、本拠地をまずはバルセロナに、更にトレドに移している。(下の画像はスペインの古都トレドの風景。)
西ゴート王国をイベリア半島に駆逐した後、フランク王国はピレネー山脈にまで領土を広げている。他方のブルグント王国はプロヴァンス地方に領土を拡大することができた。但し、イタリアを支配していた東ゴート族の王テオドリックはフランク王国を警戒していた。故に西暦508年には軍を送り込んでアルルを占領し、フランク王国の勢力拡大を阻止したんだそうな。
その後のフランク王国・ブルグント王国・西ゴート王国結局、ガリアを二分して支配したフランク王国とブルグント王国。やがて決着をつける時が来た。西暦534年、クローヴィスの子供たちが率いるフランク王国軍がブルグント王国を滅亡させた。昨日の友は今日の敵になったわけだ。他方、6世紀末にはスエヴィ王国を征服し、イベリア半島全土(今のスペインとポルトガル)を支配した西ゴート王国だったけれども、恐るべき敵はやがて海を越えてやってきた。西暦711年にジブラルタルに上陸したイスラム教徒が西ゴート王国を滅ぼし、数年の内にイベリア半島の大部分はイスラム教徒によって支配されることになる。更には後ウマイヤ朝が成立し、今のスペイン南部アンダルシア地方の古都コルドバは当時の世界で最大の都市に成長したらしい。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |