ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦482年、メロヴィング家のクローヴィスがフランク人の一部族の王となった。(フランス)


メロヴィング家フランク王国の祖クローヴィス(1世)

西暦482年、メロヴィング家のクローヴィス(1世)が、フランク人の一部族の王となった。クローヴィスは465年(あるいは466年)生まれとされているから、王となった時点で17歳(あるいは18歳)だったわけだ。

クローヴィスの即位の6年前には、イタリアのローマから発して西欧を支配していた西ローマ帝国が滅亡していた。でも、西ローマ帝国のガリア軍司令官シャグリウスは、フランス北部に勢力を維持していたんだ。そのシャグリウスをクローヴィスが撃ち破ったのが西暦486年。それを契機にクローヴィスの勢力がフランス北西部を流れるロワール川流域に広がることになった。(下の画像は現在のロワール川の様子。)

フランス北部を流れるロワール川の風景

その後のクローヴィスは更に勢力を拡大していく。西暦491年にはチューリンゲン人を打ち破ってライン地方を征圧し、更に496年にはアラマンニ族を打ち破ってスイスにまで勢力を広げたらしい。

フランクの王クローヴィスがローマ・カトリックに改宗

クローヴィスが臣下3,000人と共にローマ・カトリックに改宗したのも、この頃だと考えられているらしいよ。今のフランスのブルゴーニュ地方を中心に支配していたブルグント王家から迎えた王妃クロティルドの影響だと言われているんだ。

そして、西暦507年にはアラリック2世の率いる西ゴート王国軍を撃ち破った。勝ったフランク王国は領土を西と南に広げ、敗れた西ゴートは首都をトレド(スペインの古都)に移したんだ。

夕暮れのセーヌ川に浮かぶシテ島とノートルダム大聖堂のシルエット(パリ、フランス)

しかし、メロヴィング家フランク王国を建国したクローヴィス(1世)にも死は訪れる。西暦511年、フランク王クローヴィス1世は、今のフランスの首都パリのシテ島で亡くなったと言われている。しかし、その墓は未だに発見されていない。(上の画像は、夕暮れのセーヌ川に浮かぶシテ島。ノートルダム大聖堂のシルエットも見える。)

サン・ドニ聖堂に見るクローヴィス(1世)の墓碑

フランス王家の墓地となっているパリ郊外のサン・ドニ大聖堂にはクローヴィス1世の墓碑(下の画像)を見ることが出来る。但し、その墓さえも見つかっていないくらいだから、ご本人に似ているのかどうか、定かじゃないんだけどね。

パリ郊外のサン・ドニ聖堂にあるメロヴィング家のクローヴィス(1世)の墓碑(フランス)

ちなみに、このフランス王家の墓所のあるパリ郊外のサン・ドニ大聖堂なんだけど、フランス革命の後に荒らされている。歴代の王たちの墓なども破壊され、あるいは捨てられたんだそうな。

ついでながら、このサン・ドニ大聖堂では、フランス革命で処刑されたフランス王ルイ16世やマリー・アントワネットの像や墓もあるんだ。フランス皇帝ナポレオンが没落し、ブルボン家の王政復古の後にルイ18世の命で設けられたものだけどね。

メロヴィング家とクローヴィスの父祖たち

ところで、クローヴィス1世の父祖達の話。まず、その父の名はキルデリクス。クローヴィスと同じくフランク人の一部族の王だった。キルデリクスの墓は17世紀にベルギーで見つかっている。

そして、クローヴィスの祖父の名はメロヴィクス。その名前から、子孫たちの家はメロヴィング家と呼ばれたわけだ。

メロヴィング家はその後もフランク王国の王位を保っていたんだけど、西暦752年にはカロリング家の小ピピン(3世)がフランク王となり、メロヴィング家は王位を失っている。ちなみに、小ピピンの父親は、西ゴート王国を滅ぼしたイスラム教徒との戦いで勝利を得たカール・マルテルだった。更には小ピピンの息子は、西ローマ帝国の皇帝となったカール大帝(シャルルマーニュ)だった。

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