初代カロリング朝フランク王となった小ピピン(3世)メロヴィング家のクローヴィスがフランク王の初代と言えるよね。対して、カロリング朝フランク王の初代は小ピピン(あるいはピピン3世)だね。
上の画像は、その初代カロリング朝フランク王となった小ピピン(3世)と王妃の墓なんだ。フランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂にあるフランス王家の墓所で見ることができる。(このサン・ドニ大聖堂には、フランス革命の後に処刑されたフランス王ルイ16世とマリー・アントワネットの墓もあるんだ。)
ローマ教皇により塗油を受けたフランク王 小ピピン(3世)この小ピピン(3世)は西暦714年にメロヴィング朝フランク王国の宮宰カール・マルテルの息子として生まれている。その時点で既にメロヴィング家の王たちは実権を失い、カロリング家の宮宰がフランク王国の実質的な支配者となっていた。その頃、イベリア半島はジブラルタルから侵攻したイスラム教徒の支配下に陥っていた。そのイスラム教徒たちは更に北上し、ガリア(今のフランス)にまで侵攻していた。そして西暦732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルは、トゥール・ポワティエの戦いでイスラム教徒の軍を撃ち破った。その結果、彼のフランク王国での権威は更に高まったわけだ。 そんなカール・マルテルの後継者たる小ピピン(3世)は、父の権威をも受け継いだわけだ。但し、カール・マルテルが亡くなった西暦741年には、小ピピン(3世)は兄のカールマンと共に父の地位を継承している。ところが、西暦747年に兄のカールマンは修道院に入り、その結果として小ピピン(3世)が単独でフランク王国の支配者となったんだ。 ところが、フランク王国の宮宰たる小ピピン(3世)の上には、名目のみの存在とはいえメロヴィング家のフランク王キルデリク3世がいた。でも、カロリング家の実力を背景にローマ教皇ザカリアスの承認を得た小ピピンは、フランク王国の貴族たちの支持をも得て、メロヴィング家の王を廃位した。そして西暦752年、小ピピン(3世)はマインズ大司教によって塗油を受け、初代カロリング朝フランク王となった。
でも、主家を廃してフランク王となった下克上の後ろめたさがあったのか、あるいはフランク王国の貴族たちの支持に不安があったのか。小ピピン(3世)を西暦754年にローマ教皇ステファヌス3世をパリに招き、サン・ドニ大聖堂(上の画像)で再度の塗油を受けている。
「ピピンの寄進」とローマ教皇領ローマ教皇の支持を得て、晴れて初代カロリング朝フランク王国の王となった小ピピン(3世)。そのローマ教皇を圧迫していたランゴバルド王国に対して遠征を行い、勝利を得た。更にはその戦いで獲得した古都ラヴェンナをローマ教皇に寄進(いわゆる「ピピンの寄進」)している。
このラヴェンナなんだけど、末期の西ローマ帝国の首都となった古都なんだ。上の画像はそんな西ローマ帝国の皇女ガラ・プラキディアを葬ったガラ・プラキディア廟にあるモザイク画「水盤から水を飲む鳩」。ラヴェンナには歴史のあるモザイク画が多く残されているんだ。
イスラム教徒とも戦ったフランク王 小ピピン(3世)イタリアにおいてローマ教皇との関係を深め、ランゴバルド王国をたたいたフランク王 小ピピン(3世)。他方でガリア南部にも遠征している。西暦752年にはローヌ川を下り、今のフランス南部プロヴァンス地方に向かい、ニームなどの街を占領している。(下の画像はニームの街に残る古代ローマ帝国時代の円形競技場。ついでながら、このニームの街に水を供給していたのが、水道橋 ポン・デュ・ガールだった。)
西暦756年には今のスペイン南部アンダルシア地方の古都コルドバに首都を置いて成立した後ウマイヤ朝の軍と戦い、西暦759年には今のフランス南部の街ナルボンヌを占領している。
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