スペインの古都コルドバにおける後ウマイヤ朝の樹立西暦750年、アッバース朝によってウマイヤ朝が滅ぼされた。アッバース朝はウマイヤ朝のカリフの一族を皆殺しにしようとしたらしい。ところが、かつてのウマイヤ朝のカリフの孫にあたる若者がシリアからエジプトを経て、北アフリカを西へと逃げていった。それがやがて後ウマイヤ朝を樹立するアブド・アッラフマーン1世だった。そして西暦755年、アブド・アッラフマーン1世はスペインに渡った。ところが、スペインのイスラム教徒の指導者たちは、ウマイヤ朝のカリフの孫である彼に権力や兵士たちを奪われることを怖れ、彼を殺そうとした。やむなくアブド・アッラフマーン1世は身を潜めてスペイン南部アンダルシア地方を転々としたらしい。 でも、スペインにはかつてのウマイヤ朝にゆかりのイスラム教徒も少なくなかった。新しい体制に不満を持つ人々も少なくなかった。やがてアブド・アッラフマーン1世の元には多くの支持者が集まり、西暦756年には古都コルドバを奪うことが出来たんだそうな。
コルドバを奪ったアブド・アッラフマーン1世は市内のモスクで礼拝を行い、アミールを称した。こうしてスペインの古都コルドバを中心とする後ウマイヤ朝が成立したわけだ。上の画像はコルドバに残るメスキータ(昔のモスク)の内部の様子なんだ。
後ウマイヤ朝による古都トレドの征服ところが、古都コルドバを奪ったからといって後ウマイヤ朝がスペイン全土を支配下に入れたわけではなかった。西ゴート王国ゆかりの古都トレドはアブド・アッラフマーン1世に従おうとはしなった。アブド・アッラフマーン1世は後ウマイヤ朝軍を何度か送り、古都トレドを攻囲している。ようやく古都トレドを征服することが出来たのは、西暦764年のことだった。(下の画像は古都トレドの風景。)
ちなみに、古都トレドは西暦785年にも再び後ウマイヤ朝に叛旗を翻している。その際にはあっさりと鎮圧されちゃったらしいけどね。
その後、西暦801年にはフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)にバルセロナ(今のスペイン北東部カタルーニャ地方の州都)を奪われている。そのバルセロナを再び奪い返すために後ウマイヤ朝は何度も軍を派遣している。西暦815年、828年、849年、・・・ 結局は取り返すことは出来なかったんだけどね。
アッバース朝に寝返った古都セビリアスペインに後ウマイヤ朝を樹立したアブド・アッラフマーン1世は、ウマイヤ朝のカリフ一族の生き残りをスペインに呼び寄せたらしい。周囲に信頼できる縁者を集め、自分の権力の確立を目指したんだそうな。ところが、ウマイヤ家ゆかりの人々を重用した結果、スペインで後ウマイヤ朝の樹立に協力した人々が不満を抱いたんだそうな。その結果、西暦763年には古都セビリアなどの人々がアッバース朝に寝返り、一時は後ウマイヤ朝が劣勢に陥ったらしい。アブド・アッラフマーン1世は籠城の末に奇襲攻撃に成功して勝利を得ることが出来たけれども。(下の画像はセビリアの大聖堂の脇にそびえるヒラルダの塔。)
このスペイン南部アンダルシア地方を流れるグアダルキビル川のほとりの古都セビリアは、西暦766年にも反乱を起こしている。間もなく鎮圧されているけど。
後ウマイヤ朝の下で発展した古都コルドバそんなこんなでスペインに樹立された後ウマイヤ朝もようやく安定を得ることが出来たわけだ。ところが、西暦788年にアブド・アッラフマーン1世が亡くなると、再び争いが起きている。彼の息子たちが互いに戦うことになったんだ。結局はヒシャーム1世が後継者となったんだけどね。その後のスペインの後ウマイヤ朝の下で古都コルドバは発展を続け、10世紀末から11世紀にかけて世界でも最大の都市となったんだそうな。そんな古都コルドバの風景が下の画像なんだ。
街の発展に応じて、古都コルドバのモスクも拡張されていったらしい。増築に次ぐ増築の結果、数万人のイスラム教徒が礼拝を行うことが出来る規模のモスクになったんだそうな。
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