サレルノに本拠を移したランゴバルド族の公アレキ2世西暦476年に西ローマ帝国が崩壊した後、イタリア北部を支配したのはラヴェンナを本拠とした東ゴート族の王テオドリックだった。その東ゴート王国も崩壊し、やがてイタリア北部はランゴバルド族の支配下に入った。ランゴバルド族は西暦569年にミラノを征服している。ランゴバルド族の一部は更に南下を続け、ローマを通過し、今のイタリア南部カンパーニャ地方の一部を支配するに至る。その中心人物の一人が、6世紀末の初代ベネヴェント公ゾットだった。 そして8世紀後半にはアレキ2世がベネヴェント公となっていた。ランゴバルド族はイタリアで200年近く生き延びていたわけだ。でも、時代は大きく変化しつつあった。フランク王国の王ピピン3世(小ピピン)はランゴバルド王国からラヴェンナを奪い、ローマ教皇に寄進(「ピピンの寄進」)している。 やがて事態は更に悪化する。ピピン3世の死後にフランク王となったカール(後のカール大帝あるいはシャルルマーニュ)は西暦774年にイタリア北部のランゴバルド王国を滅亡させた。ランゴバルド王の娘と結婚していたベネヴェント公アレキ2世はフランク王国軍に抵抗したらしい。敵の勢いを押し返すことはできなかったけど。
西暦787年、カール大帝のフランク王国軍が南下し、アレキ2世のベネヴェント公国の領内に侵攻した。圧迫を受けたアレキ2世はその本拠をサレルノに移さざるを得なくなったんだ。アレキ2世はサレルノの山の上にあった古代ローマ帝国・ビザンティン帝国時代の城砦を整備・拡張・強化している。その城が今もサレルノを見下ろすアレキ城(上の画像)だね。
ベネヴェント公の勢力拡大サレルノに移ったベネヴェント公アレキ2世だったけれども、結局は強大なフランク王国のカール大帝の宗主権を認めざるを得なくなり、二人の息子のうちの一人(次男)を人質に出している。ところが、西暦788年にはアレキ2世と長男が亡くなってしまった。人質となっていた次男の帰還が許され、ベネヴェント公位を継承したらしい。
その後のアレキ2世の後継者たちは、再びフランク王国からの実質的な自立を回復し、更には勢力を拡大し始める。例えば、アマルフィ(上の画像)には貢納金の支払を押し付けたらしい。
イスラム教徒による襲撃とベネヴェント公国の混乱・衰退ところが、9世紀に入るとイスラム教徒(8世紀にはスペインに侵攻し、プロヴァンス地方にも進出した)による襲撃が頻発したんだ。イスラム教徒は、サレルノやナポリ(下の画像はナポリの海辺の風景)などを襲撃したらしい。ちなみに、ローマを襲撃しようとしたイスラム教徒艦隊とキリスト教徒艦隊との間のオスティアの戦いは西暦849年だった。
そんなこんなで混乱・衰退するベネヴェント公国に追い討ちをかけたのが、攻勢をかけてきたビザンティン帝国だった。元々イタリア南部を支配していたビザンティン帝国が、再びイタリア南部に勢力を拡大しようとしてきたわけだ。その結果、ベネヴェント公国は更に衰退し、やがては分裂に追い込まれてしまった。
サレルノ ・・・ その後ベネヴェント公アレキ2世が本拠を移したサレルノは、その後もランゴバルド系の公(サレルノ公と称される)の支配下にあった。でも、11世紀にサレルノ公ジズルフォ2世の妹と結婚したのが、悪名高いノルマン人ロベール・ギスカールだった。やがて西暦1076年にはロベール・ギスカールがサレルノを征服し、歴史あるランゴバルド族のベネヴェント公の後継者はイタリアから消えてしまったわけだ。
ランゴバルド族のベネヴェント公はいなくなっても、サレルノ(上の画像はその海辺の風景)はイタリア南部有数の港町として発展し続けた。でも、その故にサレルノはその後も歴史の動乱の舞台になっている。
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