サレルノを征服したノルマン人ロベール・ギスカールイタリア南部の街サレルノの海辺から見上げれば、山の上にアレキ城が見える。それが下の画像なんだ。
この山の上には古代ローマ帝国・ビザンティン帝国の頃から城砦があった。その後、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)に圧迫されたランゴバルド族のベネヴェント公アレキ2世が本拠をサレルノに移し、山の上の城砦を整備・強化した。故に公の名からアレキ城と呼ばれたわけだ。
聖マタイの遺物とノルマン人ロベール・ギスカール敗者となったサレルノ公ジズルフォ2世からロベール・ギスカールが奪い取ったのは、サレルノの街だけではなかった。新約聖書に福音書を残す聖マタイの遺物をも奪ったらしい。その聖マタイの遺物を祀る為にロベール・ギスカールが建立を始めたのが、今のサレルノのドゥオモ(大聖堂)だった。(下の画像はそのドゥオモの地下のクリプトにある聖マタイのお墓。)
といっても、ノルマン人ロベール・ギスカールが信仰心に篤い敬虔な人物だったというわけじゃない。フランスの首都パリの北に広がるノルマンディーから出てきて、シシリアやイタリア南部の各地に勢力を広げつつあった彼は、しばしばローマ教皇の支配下にある教皇領にまで侵攻したらしい。
カノッサの屈辱とロベール・ギスカールところが、ノルマン人ロベール・ギスカールを破門したローマ教皇グレゴリウス7世もただ者じゃない。神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世と叙任権闘争を始めたんだ。そして西暦1076年には皇帝を破門し、その翌年にはかの有名な「カノッサの屈辱」事件が起こっている。とりあえずは皇帝が屈服し、ローマ教皇が叙任権闘争に勝利を得たかと思われた。ところが、他方の皇帝もそのまま引き下がってはいない。皇帝と教皇との関係は再び悪化し、西暦1080年には教皇は再び皇帝を破門したんだ。その結果、教皇は北に皇帝、南にロベール・ギスカールという大敵を抱えることになってしまった。 さすがに闘士として名高いローマ教皇グレゴリウス7世も、南北に大敵を持つのはあまりに危険だよね。というわけで、教皇は南のノルマン人ロベール・ギスカールと和解したんだ。教皇に協力する代わりに、ロベール・ギスカールが強引に支配下に置いたサレルノやアマルフィについては眼をつぶるということみたい。 ローマ教皇と和解したロベール・ギスカールは、西暦1081年にはビザンティン帝国に向かって攻めかかって船出していった。ところが、それから間もなく、カノッサイの屈辱のリベンジに燃える皇帝ハインリヒ4世は、教皇グレゴリウス7世のお膝下のローマを攻めていた。神聖ローマ帝国の大軍に攻め込まれた教皇グレゴリウス7世は、サン・ピエトロ大聖堂からも近いサンタンジェロ城(下の画像)に逃げ込んだんだ。
教皇グレゴリウス7世の救援の為にビザンティン帝国から帰還したロベール・ギスカールだったけれども、足許のイタリア南部での反乱の鎮圧に手間取り、大軍を率いてローマに向かったのは西暦1084年のこと。やがてサンタンジェロ城に籠城していた教皇グレゴリウス7世を救出することに成功した。
ロベール・ギスカールの死目的を達したロベール・ギスカールは、大軍を率いてローマを去り、南へと帰って行った。その軍と共に教皇グレゴリウス7世も南に向かった。ローマの人々から恨まれた教皇は、そこにとどまることは出来なかったんだ。そして西暦1085年、聖マタイの遺物を祀る為にロベール・ギスカールが建立を始めたサレルノのドゥオモ(大聖堂)が完成した。そのドゥオモを聖別し、聖マタイに捧げたのは、教皇グレゴリウス7世だった。でも、彼は間もなく亡くなり、サレルノのドゥオモ(大聖堂)に葬られている。(下の画像はそのサレルノのドゥオモの内部の様子。)
教皇の死から2ヵ月後、ノルマン人ロベール・ギスカールが亡くなった。ビザンティン帝国征服を目指した遠征の途中だった。ローマを離れて失意の内に亡くなった教皇とは対照的に、夢を追い続けたロベール・ギスカールの死だった。享年は70歳だったとか。
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